粗筋 売れないピエロ芸人のアーサー・フレックは、コメディアンを密かに夢見ていた。しかしトゥレット障害があるため周りに馴染むことすら叶わず、肩身は狭くなるばかり。彼を疎む同僚の策略で職を失うも、そのきっかけである銃によって彼の人生は転機を迎える…。
ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞の本作、先ずは主演ホアキン・フェニックスの圧倒的な演技力を思い知る。ニコルソンが華麗さ、ヒースレジャーが悪魔的だとすれば、ホアキンフェニックスのジョーカーは痛々しい。年老いた母親と暮らす精神異常の中年役、と言えば「ビューティフル・デイ」が浮かぶ。あちらのホアキンはたるみを帯びた筋肉質だったが、今作は一転してガリガリで、一目見て異様。またホアキン自身奇矯な振舞いで知られる役者でもあり、今回の「居たたまれない狂人」像はなるほど彼にしか演じられない役だと納得できる。
今作のベースがスコセッシの2作にあるのは明らかだろう。ストーリーの多くは「キングオブコメディ」に沿っている。売れないコメディアンが、トークショーの人気司会を眺めては自分も脚光を浴びることを夢見る。憧れの座にたどり着こうともがくが叶わず、また偶像化していたスターからの痛烈な批判(今作では侮辱)に逆上し過激な行動に出る…。
キングオブコメディにおいて、主人公のパンプキン(主演のデニーロが、今作ではショーの司会役とは上手い配役)は承認欲求に飢えていた。壁に貼った笑顔の観客の写真に対して、厄介払いの社交辞令をしてきたスターに対して、意中の女性に対して…。自分を認めて欲しくて、強がりと妄想をエスカレートさせていく。
今作のジョーカーとの類似として、スコセッシの代表作「タクシードライバー」も挙げたい。主人公トラヴィス(これもデニーロ主演)が街の退廃を嘆き狂気を貯め込みながら、自警団を気取ってやがてはゴロツキを皆殺しにする…。
パンプキンが終始承認欲求=人間臭さを漂わせているのに対し、トラヴィスは始めから没交渉で周りとの理解を深めようとしない。「ジョーカー」の主人公像は、物語が進むに連れて「パンプキンからトラヴィスに移行」していく。今作の面白さはここにある。
愛した母は異常者だった、自分は貴種流離ではなかった、尊敬する師に笑い者にされた…。母を殺し、師を撃ち、父を死に至らしめ、彼は世俗的な価値を一つづつ脱ぎ去る。「人生は喜劇であり、笑いは主観的なものだ。だから俺は、笑えることをする」。人間性=アーサーであることを捨て去り、超人=ジョーカーはスポットライトの中で語る。ショーでの非難万雷に動じないように、暴徒の歓呼の声に対しても浮かれない。彼は自己のみに依って立つ。
マーベルもDCも「超人だって辛いねんで」と超人→人間の流れで映画を作る。今作は、アンチヒーロームービーとして正しいあり方ではないだろうか。「スーサイドスクワッド」が『極悪イキリ人情派』とその実ヒーロー映画と全く同じ構造をしていたのに対し、今作は反対の流れで話が進む。それに、超人性をアクションの派手さで分かりやすく提示する諸作品に比べ、今作の異質さは際立つ。
ヒーローとも、ヴィランとも対峙しないアンチヒーロー映画の誕生。改めてホアキン・フェニックスの演技力、ジョーカーというキャラクターの魅力を分からされた一作だった。
ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞の本作、先ずは主演ホアキン・フェニックスの圧倒的な演技力を思い知る。ニコルソンが華麗さ、ヒースレジャーが悪魔的だとすれば、ホアキンフェニックスのジョーカーは痛々しい。年老いた母親と暮らす精神異常の中年役、と言えば「ビューティフル・デイ」が浮かぶ。あちらのホアキンはたるみを帯びた筋肉質だったが、今作は一転してガリガリで、一目見て異様。またホアキン自身奇矯な振舞いで知られる役者でもあり、今回の「居たたまれない狂人」像はなるほど彼にしか演じられない役だと納得できる。
今作のベースがスコセッシの2作にあるのは明らかだろう。ストーリーの多くは「キングオブコメディ」に沿っている。売れないコメディアンが、トークショーの人気司会を眺めては自分も脚光を浴びることを夢見る。憧れの座にたどり着こうともがくが叶わず、また偶像化していたスターからの痛烈な批判(今作では侮辱)に逆上し過激な行動に出る…。
キングオブコメディにおいて、主人公のパンプキン(主演のデニーロが、今作ではショーの司会役とは上手い配役)は承認欲求に飢えていた。壁に貼った笑顔の観客の写真に対して、厄介払いの社交辞令をしてきたスターに対して、意中の女性に対して…。自分を認めて欲しくて、強がりと妄想をエスカレートさせていく。
今作のジョーカーとの類似として、スコセッシの代表作「タクシードライバー」も挙げたい。主人公トラヴィス(これもデニーロ主演)が街の退廃を嘆き狂気を貯め込みながら、自警団を気取ってやがてはゴロツキを皆殺しにする…。
パンプキンが終始承認欲求=人間臭さを漂わせているのに対し、トラヴィスは始めから没交渉で周りとの理解を深めようとしない。「ジョーカー」の主人公像は、物語が進むに連れて「パンプキンからトラヴィスに移行」していく。今作の面白さはここにある。
愛した母は異常者だった、自分は貴種流離ではなかった、尊敬する師に笑い者にされた…。母を殺し、師を撃ち、父を死に至らしめ、彼は世俗的な価値を一つづつ脱ぎ去る。「人生は喜劇であり、笑いは主観的なものだ。だから俺は、笑えることをする」。人間性=アーサーであることを捨て去り、超人=ジョーカーはスポットライトの中で語る。ショーでの非難万雷に動じないように、暴徒の歓呼の声に対しても浮かれない。彼は自己のみに依って立つ。
マーベルもDCも「超人だって辛いねんで」と超人→人間の流れで映画を作る。今作は、アンチヒーロームービーとして正しいあり方ではないだろうか。「スーサイドスクワッド」が『極悪イキリ人情派』とその実ヒーロー映画と全く同じ構造をしていたのに対し、今作は反対の流れで話が進む。それに、超人性をアクションの派手さで分かりやすく提示する諸作品に比べ、今作の異質さは際立つ。
ヒーローとも、ヴィランとも対峙しないアンチヒーロー映画の誕生。改めてホアキン・フェニックスの演技力、ジョーカーというキャラクターの魅力を分からされた一作だった。
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