君の名は。
2016年9月14日
映画の話。
①「君の名は。」粗筋
東京に暮らす男子高校生、立花瀧はある朝目覚めると、飛騨の山村に住む女子高校生、宮永三葉になっていた。同じ頃、三葉は瀧に。奇妙だと思いつつも夢だと片づけて一日を終えた二人。
しかし周りの反応から、入れ替わりがたびたび起きていることに気付く二人。入れ替わっている間のルールをスマホやノートにメモとして相手に伝え、互いの生活を守るべく四苦八苦する生活が始まった。
性別も暮らしも違う二人。始めは互いの行動のおこす影響にいがみ合っていた二人だが徐々に打ち解けていく。しかし入れ替わりは突然止んだ。三葉に会うべく、記憶を頼りに東京を出た瀧。しかし三葉の住んで「いた」糸守町は3年前、彗星の破片が落ちたことで湖の底に沈んでいた。死没者名簿には、三葉の名があった。
瀧は三葉の祖母が言っていた言葉を思い出す。入れ替わっていた間に参拝した宮永神社の御神体の下へ馳せ、三葉の半身である口噛酒を口に含み、もう一度3年前に戻る。隕石の降る朝に戻った瀧は、三葉の友人2人に声をかけ、糸守町民を救うべく奔走する…。
②夏映画の怪物
言うまでもないことですが…「君の名は。」が現在売れに売れています。公開三週で興業60億を突破、公開館数も300館をキープ、と驚異的な数字をたたき出しています。今年の夏映画の怪物と言えば「シン・ゴジラ」ですが、元来ファミリー層が強い日本映画産業の中で、これらの非ファミリームービーが60億を売り上げたというのは驚きを隠せません。
③「君の名は。」の魅力
「君の名は。」は何故売れたのか。それは「新海的であり、かつ最大限大衆化できたから」、ではないでしょうか。
「君の名は。」には新海誠監督の過去作とのリンクを感じさせるポイントが数多くあります。君と僕と世界の終焉、というモチーフは「ほしのこえ」や「星の向こう、約束の場所」の色がありますし、死生の境界を超える民俗信仰は「星を追う子供」を思わせます。三葉の高校の古典教師のユキちゃん先生は前作「言の葉の庭」のヒロインを偲ばせます。
とまあ、新海フリークたち虜にしつつ、今作は過去作よりも大幅に一般観客にアプローチした作風になっています。エンターテイメント性が、格段に高い。
第一に明るい。性別逆転もの典型のセクシャルコントが、序盤をコメディータッチな仕上がりにしています。瀧in三葉は女体の胸を揉み、ばんからな振る舞いで女友達を慌てさせる。三葉in瀧は男友達のボディータッチに赤面し、女子力の高さで年上の女性と予想外に仲良くなり、そんな彼(彼女)の振る舞いに男友達がノンケを卒業する。新海作品で劇場内に笑いの渦が巻き起こるなんて、初めてではないでしょうか。表情がころころ変わる、リアクションが聊か大仰なのも従来の新海作品との違いですよね。今までは無表情と抑揚の平板さの中に、微細な感情の機微を感じさせるものでしたから。
次にキャラクターの多さも魅力的です。新海監督がデビューした当時はゼロ年代前半、「セカイ系」が流行っていた時期であり、氏の作品も「君と僕」のミニマルな対話劇を取ることが多かった。「星を追う子供」は例外でしょうが、ジブリを意識した作風で見分け、名前の判別が付きにくかったことを思えば、今作は多くのキャラクターが登場し、彼らの物語上の役割がはっきりしていたのは高評価です。
そして何より、「100%の幸せを得る」というのは最大の差異点ではないでしょうか。新海作品は、辛い。約束の場所には辿りつけず、心の距離は縮まらない。生死の境は超えられず、逢瀬は雨の季節でしか続かない。叶えられないものは諦めるしかない。そういう諦念を抱えて生きる苦しさに溢れていました。
今作は新海作品初の制作委員会方式を取り、また今までのワンマン体制ではなく、監督・脚本以外の多くの部分を他のスタッフに任せています。新海エッセンスを残しつつ一般受けする仕上がりになったのは、多くの人の手を経たから、というのは穿ち過ぎでしょうか。
④ジャンル:ロジックとエモーション
瀧は三葉との間に隔たる、3年の時間を超えます。ですが私は今作はSFではなく、ファンタジーだと言いたい。何故わざわざ但し書きを加えるかというと、指向が違うからです。SF、とりわけハードSFはロジックの積み重ね、整合性の精緻さをその粋とします。(浅見克彦の「時間SFの文法」など参照)。破滅を回避するための妙手に四苦八苦したり、あげく時間の円環を構成する原因となったり。
ただ、「君の名は。」は、それとは別、エモーションの積み重ねによって見る者を高揚させる映画だと私は思います。もしも今作がロジックSFの面構えをしていながら論理破綻をしていたならそれは作品として駄目でしょうが、劇中の小道具の使い方からして、エモーションを指向した作品であるように見えるのです。
例えば瀧と三葉の通信手段。SFであるならば、先ず互いの状況を把握し、現在両者が陥っている状況を打開するべく議論=情報のコミュニケーションをするパートになるでしょう。しかし「君の名は。」では、専ら二人は軽口の応酬=感情のコミュニケーションに明け暮れます(何故入れ替わったのか、どうしたら戻るのか、は問題になりません)。自分の(互いの)顔にアホバカとマジックで書くコメディ演出は、後半部分で三葉が自分の掌で名前を伝え、瀧が自分の思いを返すというエモーションに昇華していきます。
あるいは一本の紐。瀧がいつもつけていたリストバンドは、3年前三葉が渡したものであり、宮永神社で再開したときに瀧が返し、三葉がリボンとして髪に結わえます。これもSFであったならこれ自体がループを脱出するキーアイテムになるなどの展開を見せるでしょうが、今作では二人の絆を再確認するモチーフになっています。ロジック上は不要であっても、運命的繋がりを感じるというエモーション装置としては不可欠なものなのです。
私は全ての映画はリアリティーを追及すべき、とは思いません。論理的整合性が取れているものほど優れている、とも思いません。例えばタイムスリップSFをとってみても、「12モンキーズ」や「ドニ―ターゴ」から晦渋さ、酩酊感を奪うべきとは思えませんしね。
新海作品の特徴と言えば稠密な背景と美麗な配色ですが、ワンシーンでぐっと盛り上げてくれるのも彼ならではです。隕石が宮永神社に落下する2度目のシーケンス、隕石が灼熱し雲を割り地表へ突き進むのをカメラが上から横へと回り込む。瀧の詩的なモノローグが挟まり、新海ワールドの真骨頂たる美しい世界の中で、音楽が鳴り響く。全てが詰め込まれたこの一瞬に、見る者は思わず言葉を失う。言葉(ロゴス=ロジック)を超える感動を覚える、というのもまた、映画の楽しみ方ではないでしょうか。
⑤黄昏時
瀧と三葉はたそがれどきに再会を果たします。作中では古例の「かはたれどき」、万葉言葉の「かたわれどき」も引用されます。「かたわれ」」は小惑星の分離した片割れであるとともに、瀧と三葉がbetter half、あるいは比翼連理であることも想起させます。
和語でもなかなかに抒情的ですが、同じ刻限を指す映画用語に、magic hourという言葉があります。日没後の1時間は自然光源が消滅し、影のない美しい画になる時間帯。
魔法のようなひととき。どうぞ憂き世を忘れ、この美しい映画を理屈抜きに楽しんでみてください。
①「君の名は。」粗筋
東京に暮らす男子高校生、立花瀧はある朝目覚めると、飛騨の山村に住む女子高校生、宮永三葉になっていた。同じ頃、三葉は瀧に。奇妙だと思いつつも夢だと片づけて一日を終えた二人。
しかし周りの反応から、入れ替わりがたびたび起きていることに気付く二人。入れ替わっている間のルールをスマホやノートにメモとして相手に伝え、互いの生活を守るべく四苦八苦する生活が始まった。
性別も暮らしも違う二人。始めは互いの行動のおこす影響にいがみ合っていた二人だが徐々に打ち解けていく。しかし入れ替わりは突然止んだ。三葉に会うべく、記憶を頼りに東京を出た瀧。しかし三葉の住んで「いた」糸守町は3年前、彗星の破片が落ちたことで湖の底に沈んでいた。死没者名簿には、三葉の名があった。
瀧は三葉の祖母が言っていた言葉を思い出す。入れ替わっていた間に参拝した宮永神社の御神体の下へ馳せ、三葉の半身である口噛酒を口に含み、もう一度3年前に戻る。隕石の降る朝に戻った瀧は、三葉の友人2人に声をかけ、糸守町民を救うべく奔走する…。
②夏映画の怪物
言うまでもないことですが…「君の名は。」が現在売れに売れています。公開三週で興業60億を突破、公開館数も300館をキープ、と驚異的な数字をたたき出しています。今年の夏映画の怪物と言えば「シン・ゴジラ」ですが、元来ファミリー層が強い日本映画産業の中で、これらの非ファミリームービーが60億を売り上げたというのは驚きを隠せません。
③「君の名は。」の魅力
「君の名は。」は何故売れたのか。それは「新海的であり、かつ最大限大衆化できたから」、ではないでしょうか。
「君の名は。」には新海誠監督の過去作とのリンクを感じさせるポイントが数多くあります。君と僕と世界の終焉、というモチーフは「ほしのこえ」や「星の向こう、約束の場所」の色がありますし、死生の境界を超える民俗信仰は「星を追う子供」を思わせます。三葉の高校の古典教師のユキちゃん先生は前作「言の葉の庭」のヒロインを偲ばせます。
とまあ、新海フリークたち虜にしつつ、今作は過去作よりも大幅に一般観客にアプローチした作風になっています。エンターテイメント性が、格段に高い。
第一に明るい。性別逆転もの典型のセクシャルコントが、序盤をコメディータッチな仕上がりにしています。瀧in三葉は女体の胸を揉み、ばんからな振る舞いで女友達を慌てさせる。三葉in瀧は男友達のボディータッチに赤面し、女子力の高さで年上の女性と予想外に仲良くなり、そんな彼(彼女)の振る舞いに男友達がノンケを卒業する。新海作品で劇場内に笑いの渦が巻き起こるなんて、初めてではないでしょうか。表情がころころ変わる、リアクションが聊か大仰なのも従来の新海作品との違いですよね。今までは無表情と抑揚の平板さの中に、微細な感情の機微を感じさせるものでしたから。
次にキャラクターの多さも魅力的です。新海監督がデビューした当時はゼロ年代前半、「セカイ系」が流行っていた時期であり、氏の作品も「君と僕」のミニマルな対話劇を取ることが多かった。「星を追う子供」は例外でしょうが、ジブリを意識した作風で見分け、名前の判別が付きにくかったことを思えば、今作は多くのキャラクターが登場し、彼らの物語上の役割がはっきりしていたのは高評価です。
そして何より、「100%の幸せを得る」というのは最大の差異点ではないでしょうか。新海作品は、辛い。約束の場所には辿りつけず、心の距離は縮まらない。生死の境は超えられず、逢瀬は雨の季節でしか続かない。叶えられないものは諦めるしかない。そういう諦念を抱えて生きる苦しさに溢れていました。
今作は新海作品初の制作委員会方式を取り、また今までのワンマン体制ではなく、監督・脚本以外の多くの部分を他のスタッフに任せています。新海エッセンスを残しつつ一般受けする仕上がりになったのは、多くの人の手を経たから、というのは穿ち過ぎでしょうか。
④ジャンル:ロジックとエモーション
瀧は三葉との間に隔たる、3年の時間を超えます。ですが私は今作はSFではなく、ファンタジーだと言いたい。何故わざわざ但し書きを加えるかというと、指向が違うからです。SF、とりわけハードSFはロジックの積み重ね、整合性の精緻さをその粋とします。(浅見克彦の「時間SFの文法」など参照)。破滅を回避するための妙手に四苦八苦したり、あげく時間の円環を構成する原因となったり。
ただ、「君の名は。」は、それとは別、エモーションの積み重ねによって見る者を高揚させる映画だと私は思います。もしも今作がロジックSFの面構えをしていながら論理破綻をしていたならそれは作品として駄目でしょうが、劇中の小道具の使い方からして、エモーションを指向した作品であるように見えるのです。
例えば瀧と三葉の通信手段。SFであるならば、先ず互いの状況を把握し、現在両者が陥っている状況を打開するべく議論=情報のコミュニケーションをするパートになるでしょう。しかし「君の名は。」では、専ら二人は軽口の応酬=感情のコミュニケーションに明け暮れます(何故入れ替わったのか、どうしたら戻るのか、は問題になりません)。自分の(互いの)顔にアホバカとマジックで書くコメディ演出は、後半部分で三葉が自分の掌で名前を伝え、瀧が自分の思いを返すというエモーションに昇華していきます。
あるいは一本の紐。瀧がいつもつけていたリストバンドは、3年前三葉が渡したものであり、宮永神社で再開したときに瀧が返し、三葉がリボンとして髪に結わえます。これもSFであったならこれ自体がループを脱出するキーアイテムになるなどの展開を見せるでしょうが、今作では二人の絆を再確認するモチーフになっています。ロジック上は不要であっても、運命的繋がりを感じるというエモーション装置としては不可欠なものなのです。
私は全ての映画はリアリティーを追及すべき、とは思いません。論理的整合性が取れているものほど優れている、とも思いません。例えばタイムスリップSFをとってみても、「12モンキーズ」や「ドニ―ターゴ」から晦渋さ、酩酊感を奪うべきとは思えませんしね。
新海作品の特徴と言えば稠密な背景と美麗な配色ですが、ワンシーンでぐっと盛り上げてくれるのも彼ならではです。隕石が宮永神社に落下する2度目のシーケンス、隕石が灼熱し雲を割り地表へ突き進むのをカメラが上から横へと回り込む。瀧の詩的なモノローグが挟まり、新海ワールドの真骨頂たる美しい世界の中で、音楽が鳴り響く。全てが詰め込まれたこの一瞬に、見る者は思わず言葉を失う。言葉(ロゴス=ロジック)を超える感動を覚える、というのもまた、映画の楽しみ方ではないでしょうか。
⑤黄昏時
瀧と三葉はたそがれどきに再会を果たします。作中では古例の「かはたれどき」、万葉言葉の「かたわれどき」も引用されます。「かたわれ」」は小惑星の分離した片割れであるとともに、瀧と三葉がbetter half、あるいは比翼連理であることも想起させます。
和語でもなかなかに抒情的ですが、同じ刻限を指す映画用語に、magic hourという言葉があります。日没後の1時間は自然光源が消滅し、影のない美しい画になる時間帯。
魔法のようなひととき。どうぞ憂き世を忘れ、この美しい映画を理屈抜きに楽しんでみてください。
コメント