DiaryNoteを6年続けて来ましたが
①Mtg
②翻訳
③映画
のうち、最後まで続けられたのが映画日記だけ。そういう訳(?)で、10本の振り返り(自画自賛)をして行きます。


・アメリカンアニマルズ
https://magiclazy.diarynote.jp/201905202135076454/
 ひみつ日記ではぼちぼち始めていたが、おもて日記で映画評をしたのがこの時期。振り返ってみても一番思い入れがある。


・ジョーカー
https://magiclazy.diarynote.jp/201910070203107225/
 他の人の日記で結構褒められていて、(後から知り)嬉しくなった。
https://dadadaisland.diarynote.jp/201910132104176808/
でも、コメントある方がモチベ高まるんで、書き込みに来て欲しかったなあ(なおサ終
 あと、KOCの主人公はパンプキンじゃなくて「パプキン」でした。頭ドテカボチャかな?


・ドクタースリープ
https://magiclazy.diarynote.jp/201912090030226922/
・透明人間
https://magiclazy.diarynote.jp/202007232210449599/
 長文傾向が始まった頃。国内では大して話題にならなかった映画ゆえ「俺だけは評価するぞ!」って意気込みがあった。


・新聞記者
https://magiclazy.diarynote.jp/202004070128144710/
・FateHF3章
https://magiclazy.diarynote.jp/202008202313364863/
・ヤクザと家族
https://magiclazy.diarynote.jp/202102090110087200/
 これは逆に「世評高すぎへんか?」ってもの申したい作品群。Fateはファンムービーでしゃあないが、藤井監督を「社会派!無条件で凄い!」って持ち上げる連中が多いのは…どうもね…。


・ドクターデスの遺産
https://magiclazy.diarynote.jp/202011300000375360/
 粗探し系。クソ映画には笑って許せるタイプと無理なタイプがあるが、こちらは前者。


・すばらしき世界
https://magiclazy.diarynote.jp/202103100151575242/
 掛け値なしの絶賛評。すばらしき映画。


・映画大好きポンポさん
https://magiclazy.diarynote.jp/202106110252029046/
 原作付き映画の宿命とも言える、改変についての論。殊「映画で映画を語る」うえにおいて、「一人の才能で成り立っている」っていうのは絶対に言っちゃいけない言葉だと思う。この改変は、正解。


・ベルファスト/ナイトメア・アリ―
https://magiclazy.diarynote.jp/202203272035166073/
 ラスト。人生を描いた映画で〆るというのも、乙な味。



↓移転先です。4月以降書いていけるかは未定。
https://note.com/brave_nerine509/n/ne765b80066e4
『ベルファスト』『ナイトメア・アリ―』
『ベルファスト』『ナイトメア・アリ―』
とりま移転先。後4日間はDNで書きますが。
https://note.com/brave_nerine509/n/ne765b80066e4


・ベルファスト
粗筋 69年北アイルランド、ベルファスト。プロテスタントがカトリック少数派を迫害する暴動が起きた。少年バディは忘れられない日々を過ごし、やがて町を出ていく。

 数々の賞を受賞し今年度アカデミー賞でも注目される、ケネスブラナ―最新作。
 現代において、敢えてのモノクロ映画。
https://www.youtube.com/watch?v=LKYqz-hhxAE&ab_channel=%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%B3%E6%B4%8B%E7%94%BB%E9%A4%A8ORICONNEWS
A24的なアート映画ではないかと、身構えてしまう。しかし実際は、心温まるユーモアドラマだった。

 全編「こども目線」で貫かれており、瑞々しい。類似作と違い、アイルランド・イギリスの政治闘争を主眼にはおいていない。飽くまで9歳の少年バディが捉えられる、日常風景として描かれるのだ。それは家族であり、恋であり、野に摘むシロツメクサであった。

 では何故、モノクロなのか?それはごく僅か映される、極彩色の舞台/映画を際立たせるためだ。ブラナ―はインタビューに
当時のベルファストは白黒の世界に見えたので、シネマはカラフルな想像の世界への逃避だった

と語る。バディが目を輝かせ喜ぶのは、格調高いクリスマスキャロル劇や、対照的に俗猥でスリルのある「恐竜100万年」「チキチキバンバン」…。

 この映画はブラナ―の半自伝映画(オートフィクション)だ。過酷な時代を生き、ベルファストを抜け出しロンドンに行った少年は、やがてイギリス屈指の映画人となる。辛い現実も、フィクションへの逃避も芸術へと昇華して見せるブラナ―の手腕。『ナイル~』で舐めてて正直すまんかった。いや駄作評価は変わらんけども。
https://magiclazy.diarynote.jp/202202282052026062/
 
 

・ナイトメア・アリー
粗筋 流れ者の青年スタンは、見世物小屋の旅一座にふとしたことで加わる。老いた手品師からは読心術を、座長からはエゲツなさを吸収し、持ち前の華やかさでもってショービズ界をのし上がる。
 2年後、高級ナイトクラブには透視ショーで金を稼ぐスタンの姿があった。彼は更なる栄達を求めて、権力者に付け入る霊視ビジネスに手を出すのだが…。

 前作『シェイプオブウォーター』で遂にアカデミー賞を勝ち取ったギレルモ・デルトロ監督。最新作は『悪夢の行く町』をリメイクした、傑作ノワールサスペンスだった。

 3幕構成のお手本と言える映画だ。1幕目は、スタンの出発点となるクレム一座で展開される。47年のオリジナル版は端正さのあるモノクロ犯罪劇だが、今作はもっと淫靡で、闇の濃い雰囲気を放っている。私は寧ろ、ブラッドベリ原作の『何かがこの道をやってくる』を思い出す。
 デルトロ映画と言えば、「異形のファンタジー」だ。奇形児のホルマリン、鶏を引き裂く獣人芸”ギーク”、夜空に浮かぶ観覧車…。妖しく輝く移動遊園地の世界で、スタンは才知と根性でのし上がる。

 2幕目は、彼の栄達物語だ。クレム一座と同じように、彼は大都会でも他人を犠牲にしてアメリカンドリームを追求する。愛した筈のモリ―も道具にし、新たに出会う女性リリスをも手玉に取った(気でいる)。判事の伝手で大富豪とも繋がり、巨万の富を築く。

 だが、転落もまたアメリカンドリームの常だ。3幕目では、タロットに運命づけられた破滅が彼を襲う。モリ―に見限られ、リリスに裏切られ、彼はどこまでも堕ちていく。成り上がりを誓ったあの時計を、負け犬の象徴だった酒の代金へと替えるに至ってしまう。
 最後に辿り着くのは、初まりの地である旅一座。クレム座は解散しているが、別の座長に仕事を持ちかけられる。「これはちょっとした一時仕事なんだが…」。そう、それは獣人”ギーク”として、人間性を捨て檻で飼われることを意味していた。向こうの手口は百も承知…だが、スタンは阿片入りの酒杯を煽るのだった。

 本作は、47年版とラストが決定的に違う。私はそこに、デルトロ作品に通底する「異形の救い」を見た。『パンズラビリンス』において死の間際におとぎ話の世界で永遠の生を受けた少女のように、或いは『シェイプオブウォーター』において地上を捨て海に還った人魚姫のように…。哀れな末路かもしれないが、当人の魂は救われるラストだ。
 47年版では、獣人になったスタンはモリ―に救われる。正気と共に愛を取り戻し、座長の赦しも得る。一方の『ナイトメア・アリー』では、獣人へと堕ちる決断で幕が閉じる。だが、父を殺して始めた成り上がりの地獄行が、漸くここで終わってくれる。もう「気を張る」必要はない…たとえ貧救院に投げ捨てられる未来が待とうとも、余生は気楽に過ごせるのだ。
これが宿命だったんだ。

涙ながらにごちるその顔には、何処か安らぎが浮かんでいる。






 はい!新作レビューも今回で終わりっす!両作とも素晴らしい映画なんで、皆も観ようね!!

『シング:ネクストステージ』
粗筋 ニュー・ムーン劇場は、連日の大入り満員。だが、ショービズの本場から来た評論家に酷評されてしまう。ムーンは躍起になり、一座を連れレッドショア・シティへ向かう。
 一流劇場のクリスタルタワーに忍び込んだ彼らは、意気揚々とオーディションを受けるも落選。だが、何の気なしに口にした言葉がクリスタル社長の耳に止まる。「伝説のロックスター、クレイの復帰作にする」…出まかせの安請け合いから、次なるステージは始まった。


 
 ショーの規模を小劇場からドームに変えたせいで、フィクション性が大幅に上がってしまった。別個の作品として観るならまだしも、続きものとして考えるとムーン一座が身勝手に見えてしまう。…ってのが正直な感想です。

『シング』1作目は、イルミネーション作品にしては世知辛い話でした。物件の差し押さえ、賞金、強盗、賭博と金にまつわる出来事が全編に散りばめられている。
 一方の『シング2』はどうか。ムーン側は誰一人、金の心配をしないんですよ。正規の契約ならまだ良い。けれど不法侵入+騙り詐欺でこの仕事にありついているんです。その結果、客が1万人は入るような巨大ステージを使い、大勢の裏方スタッフに指図して、高級ホテルでの宿泊も出来るようになった。

 この映画、ムーンを事ある毎に恫喝してくるクリスタル社長が悪役になるんですが…それって当然の権利じゃない?騙されて都会に連れて来られただとか、権力を嵩に着て横槍入れるなら分かる。でも、騙して仕事受注したうえ、莫大な費用は全部社長持ちですよ?そりゃ「娘を配役しろ」だの、「ご破算にしたらぶっ殺すぞ」だの言うのも分かる。

 クライマックスに向けての展開も、現実に即して考えるならムーン側が明らかに横暴です。「クレイを連れてくる」約束を果たせず、社長はムーンをとっちめようとする。するとムーンは逆に、クリスタルをやり込める作戦に打って出る。クリスタル・ステージを占拠し、1夜限りのショーを開催するのだ…。

 もちろん、これはコメディータッチのファミリーアニメなのはわかってます。でも、ムーンのやり口は悪どいにも程がある。巨大ステージを占拠し、客を全員入場無料にして、警備員を足止めすべくレストランフロアで暴動を起こす…。更には、ショーが無事成功したのちにはクリスタル社長を逮捕させる。
 挙句の果てには、クリスタル社ではなく「別の一流興行主」に乗り換えてこのショーをロングランさせる…。いやーーーーーーー信義則の欠片もねえじゃんか!


 確かに、ミュージカルシーンの出来は素晴らしいですよ?前作は「歌」一本に感動が絞られていたが、今作では衣装・踊り・照明・舞台装置などが一体となった「舞台芸術」へと進化していた。でもそれってつまり、裏方さんの比重が大きいってことだよね。なのにこの映画では、裏方はギャグ要員/賑やかしでしかない。
 ショーの規模は遥かに大きくなったのに、1と同じく「舞台上のパフォーマーだけでショービズは成り立ってる」かのように描く。『シング2』として観ると…独善的で理想主義過ぎるかな。


『ザ・バットマン』
 粗筋 ブルース・ウェイン=バットマンが裏稼業を初めて2年。ゴッサム支配層ばかりを狙った猟奇殺人事件が連続する。リドラーと名乗る犯人はバットマンを名指しして手がかりを残し、自分の後を追わせる。「嘘は沢山だ」という言葉が示す通り、現れてきたのはゴッサムが抱える巨大な欺瞞だった…。



 バットマン映画って、抽象度が高いものばかりだと思うんですよ。90年頃からコンスタントに作られるようになったバッツ映画は、大別すればアクション/シリアスの2タイプ。ジョエル・シュマッカーのゲイチックコメディ、ザック・スナイダー主導のDCUはアクション型。一方、ティムバートンやノーランはシリアス型に分類出来るでしょう。
 ノーランはリアルだろ?と思われるかもしれない。でも、「シリアス」であって、「リアル」とは別なんですよ。善悪の有りようを説いてはみるが、犯罪実行とその対抗法が現実的かには頓着しない。それが上手く行ったのが、究極の2択で人間の善性を試す『ダークナイト』。そして大失敗したのが、『ダークナイトライジング』でしょう。ピットからの脱出劇、ベイン体制への革命は「記号」として置いてあるだけであって、生きた人間が実際にやることかと言うと…。

 では、本作『ザ・バットマン』はどうか。何と、リアルな犯罪劇になってるんですよ。キャットウーマン・ペンギンらお馴染みのキャラは出るが、コスチューム劇にはなっていない。探偵が陰惨な事件に立ち向かい、物証を一つづつ拾って繋げ、真相を暴き出す。
 今作はフィルムノワールと呼ばれるジャンルの要素がふんだんに盛り込まれています。都市型犯罪、ハードボイルドな探偵と謎めいた女性、陰影の濃いナイトシーン、過去の傷との対峙…。小道具に至っては、あざといぐらい寄せてましたね。証拠画像をわざわざA4サイズにプリントアウトして「写真」の形で共有する、廃墟となったウェイン孤児院でリドラーが見せる映像は8ミリ映写機、全ての証拠を結びつけるときには写真と白線を結び付けたマインドマップを描く…など。


 基本はノワール調ながら、細かな変化を付けているところも特徴的です。本作、アメコミ映画では史上最長の3時間なんですが飽きが来ないよう調整がされている。
 例えば、アメコミ映画的な外連味。上述したタッチの映画のため、超能力や怪力は勿論出せない。けれどリアルなタッチだからこそ、前後のシーンとの落差で印象付けられる。ペンギンとのカーチェイスシーンでは、闇の中から先ずジェットエンジンの高音が鳴り響き、次いで青白いバーナー炎を噴き出してバットモービルが迫り出す。
 或いは警察署からの脱出では、それまでの密室乱闘から一転しバットグライダーで夜景の砂粒へと堕ちていく。ノーラン版バットマンは華麗に飛んで、穏やかに着地するんですが、今作は墜落に近い形だったのも対照的でしたね(パラシュートを開くも、架道橋に引っかかって地面に叩きつけられる着地に終わるのも良き)。

 何と、ユーモア要素すらあります。現場検証のシーンでは鑑識に「…ちょっと、半歩下がって」と窘められたり、立ち入り禁止テープを切ったバットラングを胸にガシャコ!と嵌め直すシーンがあったり。マットリーヴス監督は過去作『猿の惑星:聖戦記』でもユーモアを見せましたが、今作でもシリアスの中にそっと忍ばせる手腕は健在でしたね。


 
 スコセッシ調の『ジョーカー』、トロマ映画の『ザ・スーサイドスクワッド』、そしてフィルムノワールの『ザ・バットマン』。最近のDC映画は異色揃いで良いね!

『コーダ あいのうた』
粗筋 全聾一家の中で唯一の健聴者、ルビーには密かな楽しみがあった。それは歌。彼女は合唱のクラスで才能を見出され、音楽教師に「バークレー音大を受けないか?」と推薦される。
 漸く動き出した彼女の人生。だが、父・兄が漁師仲間を救うべく立ち上げた漁業組合の仕事にも、通訳として彼女が不可欠だった。夢と現実の板挟みで苦しむ中で、彼女の下した決断は…。


 大傑作。見るの遅れてたけど、余裕で今年ナンバーワンです。
 
 先ず、青春音楽ものとしてレベルが途轍もない。ミュージカル映画で場面と歌詞がシンクロするってのは王道ですが、この映画はそれまでの積み上げが丁寧。働けど楽にならざる漁師業、聾家族への引け目と愛、漸く訪れた青春への昂揚感…。それらがあるからこそ、"I fought the law", ”Star man”, "Both sides Now"などの名曲が胸に迫って来る。
 

 それに、類似作品の中で親の扱いがきちんとしているのも素晴らしいね。才能のある子供、それに反対するブルーカラーの親を描いた映画で言うと、『リトルダンサー』『フラガール』などが挙がる。でも、それらの映画では大人は間違った人間なんですよ。炭鉱仕事にも昔は栄光はあった、でも時代遅れになって、新しい価値を受け入れられない…。そんな頑固者でも、子供の一途な心に打たれ改心して送り出してやる…そういう話運びだった。
 一方の『コーダ』は、対立軸が聴覚障害を巡って置かれているため糾弾出来るものではない。それどころか、彼らへ激烈に感情移入するシーンが一つ置かれている。
 家族経営の漁業仲介業を手助けするため、音楽を諦めることにしたルビー。最後の晴れ舞台として臨むオータムフェスティバルで、彼女はデュエット曲を歌う。そこで、ふっ………と全ての音が消えていく。周りの観客は皆沸き立っている。涙ぐんでる人さえ居る。でも、父親には何も聞こえない。健聴者のような感動を、我が子に対してさえ抱くことが出来ない無力感が示される。
 だからこそ、ラスト10分には怒涛の感動が訪れる。オーディション会場で、上から見守る家族に向けてルビーは歌詞を「手話」に乗せて歌い始める。音楽が世界に対する孤独ではなく、想いを届ける調べとして初めて理解できるようになる…。設定が、ストーリーが全て必然性を持っているだけに、このシーンの感動は凄まじい。


 原作と違いコメディ要素はインキン金玉/コンドーム戦士の2点しかないですが、兎に角情感の厚みに圧倒されっぱなし!掛け値なしでお勧めの1作です。

野心的なグロ邦画『真・事故物件 本当に怖い住民たち』を語る
粗筋 駆け出しアイドルの佐久間は、マネージャーの安藤から新たな仕事を持ちかけられた。同じ事務所に所属する諏訪部・百瀬と共に事故物件へ住み込み、「幽霊撮るまで帰れません!」企画に参加しろと言うのだ。そのボロアパートは30年前、悪魔教信者がバラバラ殺人を起こした曰くつきの物件だった。
 木更津某所へ赴き、貧乏長屋暮らしを始めた3人。身の回りで起きる数々の異変、霊能Youtuber樋之口のバックレなどから憤懣を募らせ安藤に中止を求めるも、彼はのらりくらりと躱し取り合わない。そうこうする内、佐久間は空き部屋のスクラップブックで真実を知る。だが彼女は部屋で突如襲われ…。


①作品概説
 監督はスプラッターホラーで知られ、ゆうばり映画祭で物議を醸した佐々木勝己。「この手の」映画を配給するTOCANAが、製作映画第一弾として製作・配給を担当した。公開館は僅か7館ながら、ボンクラオタク共コアな映画ファンの評判は高い。
 僕、TOCANAって配給会社『シークレットマツシタ』ってゴミ映画しか知らず調べたんですが、サイゾー傘下で陰謀論・オカルト・猟奇事件の3本柱を発信するニュースサイトなんですね。…期待させてくれるねぇ!(クソ映画ハンター感


②ホラー要素:杜撰の極み
 貶し文句で初めて済まないが、前半1時間がもーーー退屈極まる。何故なら、心霊ホラーの勘所を全く心得ていないからだ。

 バックステージもの、内幕ものと呼ばれるジャンルがある。演芸、映画、ラジオ、テレビ番組などの製作の裏側を見せるジャンルだ。さて、ホラーに寄せて語るならば「肝試し企画を撮影/配信中に怪事に遭う」というのはPOVが流行った頃に腐るほど作られた。本作の設定もこれに則っている。
 在り来たりだから駄目?そんなことはない。だが、ベタにはベタの工夫と面白さがある。それは「ディティール」のフレッシュさと詰めようにある。

 3人のYoutuberアイドルは入居後、事ある毎にマネージャー安藤を「段取りの出来ないダメ野郎だ」と愚痴る。だが映画を観る限りでは、彼女らも仕事をしているようには凡そ見えない。
 弱小芸能プロ所属ゆえ、出演以外の仕事もアイドル自身がやらねばならない筈だ。生活費を稼ぐためにバイトする、小銭稼ぎと固定ファン獲得のためスパチャリク待ちでライブ配信をする、コラボ案件でトークやパーティーゲーム動画を撮る、Adobeの編集画面を開いてカチカチ作業をするなど…。そうした描写が一切ない。

 お仕事要素がないと何故ダメか?(安藤が非協力的なのはワケがあるとはいえ、)彼女らが怠慢に見え、心情的に応援し辛くなるだけではない。心霊ホラーには、「日常風景」が必要なのだ。


③小中理論
 屈指のホラー脚本家小中千昭が『恐怖の作法』で語るには、ホラー映画の導入部には「ダラダラ感」が必要だ。何の変哲もない日常、下らない会話やり取りがあるからこそ、後に来るホラー展開が引き立つ。そのため、導入ではなるべく真に迫った生活感が求められるのだ。この映画にはそーゆーのが、まーーーったくない。

 これはカメラ一つ取り上げても分かる。「事故物件住みます企画」なのに、定点カメラや三脚を用意してないのが先ずあり得ない(撮影者は常にカメラを構え続けるのだろうか?)。それに、撮影機材の中には望遠レンズを付けた一眼レフが普通に混ざっている。…廃墟や野外ロケなら兎も角、ワンルームでそれ、要ります?
 
 同じく心霊撮影映画で言えば、中田秀夫監督の『貞子』『事故物件 怖い間取り』(←本作がタイトル丸パクリした先)などは、どうしようもないホラー映画だった。だが、どちらも内幕ものとして見るなら、今作とは比較にならない程ディティールはしっかりしている。
 低予算映画だから、手が回らないという話ではない。白石晃士監督のホラービデオはこれよりもっと低予算だが、心霊企画の楽屋風景/撮影クルーのディティールは凝っていた。この映画、Youtuber心霊企画という設定が何も活きてこない。上京したての苦学生でも、ブラック企業の借り上げ社宅でも、冬場を越すべく忍び込んだホームレスでも、話は成り立ってしまうのだ。
 

 前半部で唯一良かったのは、心霊Youtuber樋之口が出る5分間だけだ。本職がYoutuberな島田修平が演じることもありトークは流麗で、しかも「手相ネタ」弄りまであるのには正直笑った。とはいえそれ以外は、ディティールを詰める気も、心霊ホラーへの愛もまるで見えない。


④この映画の見所:ゴア表現
ジャーロ的に言うなれば、僕は”いかに殺すか”にしか興味がなく、ストーリーやキャラクターといった物にはぶっちゃけ興味が無いんです。…(中略)…だから、パッチワークの様に昔見た残酷映画の一場面を毎限してコラージュして、自分のスクラップブックを作る、ただそれだけ。

 佐々木監督がパンフに寄せた言葉だ。こうまで断言されるといっそ清々しい。作り手に心霊ホラーを作る気なんてサラサラ無いんだよ!

 では、見所たるゴア表現はどうだろう。「映倫が脚本を審査拒否!」なんてステマを、配給側も打ち出している。…確かに、大手配給の打ち出す「問題作」とやらよりは楽しい。ハーシェルゴードンルイスのように目玉が☆PON☆と飛び出し、ブルーノマッティのように舌ぶち抜いて内臓一本釣りする下りには愛嬌がある。
 …とはいえゴア表現のレベルは、2000年代にイーライロスやニコラス・ヴィンディング・レフンが一段階引き上げてしまっている。いまどき、足ぶった切られてる被害者が「わーーーきゃーーー!」と元気良く悲鳴上げられるのは…ちょっとな。


 では、この映画の見所はゴアだけなのだろうか?私は寧ろ、後半の展開こそが見所だと思う。今作には、2度急展開が用意されているのだ。


⑤急展開その1:スイッチ
 佐久間の部屋に入り込んだのは、幽霊ではなかった。隣室の青年、片桐だったのだ。押し入れから急襲し脱出を試みるも、悪霊が立ちふさがり叶わず。彼女は内臓をズルるん!と引っこ抜かれ死ぬ。不審に思った百瀬が確かめに行くが、彼女は更なる敵に逃亡を阻まれる。マネージャーの安藤もまた、悪霊/殺人鬼の味方だった!
 ここから何と、映画の目線が殺人鬼コンビにシフトする。片桐の動機は(30年前に事件を起こした祖父の)「儀式を完成させる」こと。対する安藤は「人為的な心霊スポットの創造」。『空の境界』や『さんかく窓の外側は夜』のように、もうちっと高尚な理想を掲げるなら分かる、だが安藤は
どんな心霊スポットも、肝試しだのカップルだのが来るせいで、皆幽霊逃げちまうんだよ!これじゃ聖地が絶滅しちゃうじゃないか!

とガキみたいな言い分を口にするのだから堪らない。

 おまけに、二人が駄弁るシーンがまた良いのだ。序盤は気弱キャラだった安藤は一転してワイルドに熱弁を奮い、片桐は紫煙を燻らせながら気だるげに相槌を打つ。会話の内容は物騒で猟奇的だが、まるで文化系サークルの部室のようなアンニュイな空気が流れる。世評ではラスト5分ばかりが取り沙汰されるが、僕はここのシーンが堪らなく好きだ。


⑥急展開その2:『グラインドハウス』節
 百瀬は監禁され、残る諏訪部も心臓を抉り出され死んだ。ここで、更なる急展開を迎える。死体置き場から百瀬は脱出し、片桐ともみ合いになる。すると霊除けの指輪が手を離れ、片桐は無防備となる。佐久間、諏訪部ら殺された女性が彼を囲み、拳や頭突きでタコ殴りを始める。最後は祭壇に彼を置き、四肢とド頭を「いっせーの」でぶち抜き"The End"の文字がデカデカと画面を飾る。

 クソ男を女性達がフルボッコにする姿をフラッシュカット、景気よくぶっ殺す一枚画で終わる手つきしかり、このラストは『グラインドハウス:デスプルーフ』オマージュなのは明らかだろう。
 だが僕は寧ろ、押切蓮介の漫画を思い出した。序盤は怪異に怖い目に遭わされた側が、ブチ切れてハイテンションな反撃に出る。霊能バトルではなく実力行使でブチ殺す、霊も人間も一緒になって逆襲に出る辺りが『ゆうやみ特攻隊』『サユリ』を彷彿とさせる。

 では良作なのか?…とも言い切れないのが惜しい。何故なら、回収されない謎が余りにも多いからだ。


⑦投げっぱなしエンド
 本作は未回収の要素が多すぎる。先ず3人を死に追いやった安藤はどうなったのか?助っ人で来る筈だった樋之口もグルなのか?我が子を求める狂女は誰だったのか?悪党チームだった筈の片桐祖父は、何でちゃっかり寝返ったのか?全部が投げっぱで終わる。

 これが『デスプルーフ』オマージュと言うのなら、それは違う。デスプルーフは女性3人の関係性、悪党カートラッセルの殺人嗜好などドラマ要素を全て描き切った上で逆襲劇が開幕する。だからこそ、ラストには爽快感が残る。転じて今作は、Youtuber3人以外の描写はなおざりなため、モヤモヤを抱えたまま帰途に付くことになる。


⑧結びに
 だが、それすらも織り込み済なのかもしれない。今作は早くも続編製作が決定し、佐久間役(こいつ既に死んでるキャラだぞ?)、安藤役は続投となるとのこと。
 なので、きっと次回作では謎が回収されるに違いない。更には、佐久間&諏訪部&百瀬VS安藤&片桐&ジジイの幽明入り乱れての乱闘戦が観られるかもしれない。悪霊が人を殺す映画は数多あれど、劇中死んだ者が改めて悪霊スプラッターバトルをする映画ってのは…『サーティーンゴースト』くらいしか無いんじゃないのか?

 そもそもこれ、低予算のクソ映画枠だからね?それなのにこれ程語り代があるのは、嬉しい拾い物だ。続編を座して待ちたい。




 はい、4千字評でした。良いタイプのクソ映画。
マトモとゴミのせめぎ合い!(シリーズでは)良作ホラーの『牛首村』を長文評
粗筋 雨宮奏音は友人の蓮から、とある心霊動画を見せられる。廃墟<坪野鉱泉>で肝試しを行った少女が神隠しに遭ったのだが、その顔は奏音と瓜二つ。二人は夏休みを利用し北陸を訪れる。
 その地で出会った少年、将太に案内された三澄家で奏音は驚愕の真実を知る。奏音には双子の妹詩音が居り、その詩音こそ坪野鉱泉で失踪した少女だった。二人の家系は、双子の片割れを必ず間引きする集落「牛首村」の出だった…。



①前置き
 ホラー映画監督、清水崇が手掛ける「村」シリーズの第三弾。
https://magiclazy.diarynote.jp/202102061759561963/
https://magiclazy.diarynote.jp/202103180016269478/
 僕は過去2作は散々に論難しました。…けれど、今作は「ふつう」のホラー映画になってて驚きましたよ。以下、過去作との対比を中心として、本作の面白さを(1時間半地点まで)語って行きます。


②話が理解出来る
 ストーリーが筋道立ってる!!脚本はシリーズ通して保坂・清水監督タッグなんですけど、今作は何故か分かりやすくなってます。
 
 第一に、話の軸がブレない。上記レビューで言ったように、話の推進力を複数設ける映画は(余程上手い監督ではない限り)失敗します。その点、本作は一貫している。「奏音には双子の妹が居た」「遡れば牛首村の出生である」など、情報は後から付加されるものの、当初の目的たる「失踪した少女を探す」という軸は最後までキープされる。土俗要素が、心霊ホラーの邪魔になっていないんですね。

 この点について、一つ推測できます。監督はインタビューで
 
(双子設定を語りつつ)「石川県の旧牛首村には『牛首繭』という、一つの繭に二つの蛹が入ったものがある。それを双子設定に絡めようと思ったが、複雑になり過ぎるので取りやめとなった」

と語っています。前作『樹海村』でも、初稿は「江の島は樹海と地底洞窟を通じ繋がっている」という『竜神伝説』を絡める予定だったと語っています。想像なんですが、今作は製作サイドがクソ脚本を上手くコントロールしたんじゃないですかね?
 清水監督は『呪怨』ばかりが有名ですけど、ド直球ホラーは得てして少ない。『ラビット・ホラー3D』では童話とグランギニョルを組み合わせたり、『稀人』では土俗ホラーとクトゥルフを絡めたり。芸術的意欲は買えるものの、ぶっちゃけ脚本に落とし込めていないのが致命的でした。

 今作はそうした難解要素をカット。ストレートで、見やすいお話になっています。


③脈絡が繋がる
 話の理解に関連した項目ですが、これも今作は出来ていた。一点目として、小さな伏線をこまめに張っています。「父親が詩音/三澄家を隠していた」ことは序盤の気まずい食事シーンや幼年期の回想で、「Youtuber一行の死亡」は幽霊シーンで事前に伏線を張っているため、後に提示されても唐突さがない。おまけに、ブッサイクなテレビ局映画のようにご丁寧なフラッシュバックで答え合わせをするワケでもない。提示の仕方がスマートです。
 もう一点としては、編集の繋ぎ方も向上してますね。廃墟のエレベーターシーンの直後に、ショッピングモールのエレベーターにカットを繋ぐ。そうした「感情の流れ」を途切れさせない極めてふつうの気の利いた編集が続く為、観てる側が「あれ?いきなり場面飛んだ?」と当惑することもありません。


④ドラマが面白い
 ベタで結構、ドラマパートが見やすいです。第一に、キャラ立ちが良い。主人公に片想いする蓮、ヒッチハイクに応じた男・山崎が個性的。漣はお調子者ながら奏音に対して一途な子犬男子、山崎は陽気なアンちゃんとしてムードメーカーになりつつ物語を牽引する。愛着が持てるキャラが居るってのは、それだけでホラーとして成功です。

 第二に、人物関係が整理されています。『樹海村』はメインキャラ20人が6グループに分かれており煩雑の極みでした。一方、『牛首村』は雨宮家⊂(含む)三澄家の1グループのみ。メインキャラに至っては奏音・詩音姉妹と蓮・将太のカップル2組4人だけ。
 演出でキャラの描き分けを試みているのも、好感が持てます。蓮・将太がお泊り会をする下りでは、蓮の枕元にはNintendo Switchとイヤホン、将太の枕元にはシックな腕時計と数珠が置かれ、二人は対照的な性格だと示す。或いは姉妹の祖母・妙子の初登場シーンでは、ビッシリ並んだ対人形やお札の呪言「双」を見せて過去を示唆している。
…これが村シリーズ…だと…?(畏怖)


⑤恐怖シーンも良い
 犬鳴はクソ演出、樹海はファンタジー化して壊滅的でした。しかし牛首のホラーパートは手堅い。怪奇現象が起きる→ギャーと叫ぶような展開は少なく、「何か映ってるのに登場人物が気づかない」といったレパートリーが増えている。


 それに、ホラーオタクの僕から見ても「コイツは凄い!」と感心出来る場面さえありました。奏音・蓮が昼肝試しをする間、山崎が廃墟横で留守番するシーンです。このシーン、2つの意味でフレッシュなんですよ。
 「水たまりが震え、不審に思ったキャラが近づく」…。ホラーの通例としては、「水たまりから手が出てきて掴まれ、引き摺り込まれる」パターンになるんです。ところが本作は、「水たまりに映る屋上から誰かが身を投げ、水面にぶつかる瞬間に水が大きく跳ねる」というもの。これ…見たことない演出ですね。

 更に言うと、山崎の反応含めた展開も怖いです。「キャラが怪異に気づき、息を呑む」…。これもパターンに照らすなら「怪異が一旦ピタリと止まり、高速で接近してくる」ものが多い。ところが本作、同じペースで何度も続くんですよ。「テリファイド」って演出1億点のホラー映画でも見たんですが、
https://www.youtube.com/watch?v=rscYJXrWNvI&ab_channel=VoidG
機械的に淡々と現象が起きるってのはビックリホラーとは一線を画する怖さです。

 
「マジかよ…村シリーズなのに絶賛しないといけないじゃん…」戦々恐々としてた僕ですが、1時間半からの急展開で安心しました。さすが清水監督!クソ映画はここからだ!


⑥タイムスリップ超展開
 ストーリーはこう続きます。祖母・妙子には双子の奇子が居たが、村の風習に従い餓死用の穴ぐらに突き落とされていた。壮絶な過去を知り怖気づく一行。しかし山崎に続き蓮も奇怪な死を遂げ、奏音・将太の二人は改めて詩音を探すことを決意。妙子に改めて話を聴きに行くのですが…部屋で転んだ次の瞬間に大昔の牛首村にタイムスリップします。
 ホラー映画で急激な場面転換をする場合って、①現代で別の場所に飛ぶ②今いる場所の過去に飛ぶ、のどちらかなんですよ。ところが牛首は「別の時代の」「別の場所に」飛ぶんですよ。脈絡ねえじゃんか!!

 しかも、演出も悪い。恐怖で失神する/眠りにつくなど「目を閉じ、目覚める」転換であるとか、扉をくぐる/カーテンを捲る/照明が落ち音楽が消えるといった「視覚的な推移」もない。だって今作、ババァに突き飛ばされて畳に突っ伏した次には洞窟ですよ???唐突過ぎだろ!フィルムのリール紛失してない?


⑦百鬼夜行
 過去の穴ぐらにタイムスリップし、詩音と再会した二人。だが、そこで目撃するのは牛首村の暗部。姉妹の大叔母に当たる奇子は、穴ぐらで生き延びるため、間引きで順次突き落とされてくる子供たちを片っ端から食っていたのだった!奇子は手を変え品を変え、3人に襲い来る…!

 幽霊ホラーって、「同じ幽霊が」「色んな手段で」怖がらせるジャンルだと思うんです。ところが本作、次々新キャラが出てくるんですよ。いやー参った!
 先ずは食人鬼奇子と隠れんぼ!穴ぐら脱出したのもつかの間、奇子が召喚した牛首ガキ集団が追いすがる!辿り付いた牛首村には棒立ち村民が群生しており、追いついた牛首ガキ集団とフュージョンドッペル双子に変身するぞ!
 …いやさァ…「タイムスリップ」と前述した通り、穴ぐらの時点では「過去の牛首村」に偶然入り込んだ展開だった筈。ところが、地上に戻った途端、牛首ガキ集団ドッペル双子が出るような悪夢的風景となる。お前映画のリアリティラインどこに設定してんだよ!!何で1分単位でリアリティが急降下していくんだ!

 極めつけとして、奇子にバイ菌タッチされた詩音の肌が人面疽に覆われゾンビ奇子になり果てます。何でもアリやな…。


⑧映画のオチ
 ゾンビ奇子VS奏音・将太のドリームマッチが開幕。正気を取り戻した詩音が崖から身を投げようとすると、奏音も
「心配すんなよ。一人ぼっちは寂しいもんな…」(MDKMGK)
とユニゾンジャンプ。何故か将太も付いてきて、3人仲良く投身自殺します。…次の瞬間、坪野鉱泉のエレベーターに再びタイムスリップ!愛の力で帰還!めでたしめでたし!

 犬鳴と同じイカレポンチ具合ですが、ラストにおまけが付きます。電話で奏音と話す詩音。不穏な台詞を呟き振り返ると、その顔は奇子に変わっている…。奇子は詩音の体を乗っ取り、現世に帰還していたのです。
 
 ラストシーンで余計なフックを仕掛けるのはホラーの定番。でもね、僕はこのオチ好きなんですよ。一つには、霊界スマホと化したSiriアプリが繰り返し発する「ヨリシロ:依り代とは、神霊が憑依する容れ物のこと」のことば。一応は伏線が張ってあるんです。もう一点、「異界に行く/帰還する」という、シリーズお決まりの展開だからです。


⑨「村」ユニバース構想
 清水監督が狂ってんだから、僕も狂った妄言吐いて良いよね?僕、「村」シリーズは後々にユニバース化すると思うんですよ。

 樹海に続き、今作でも過去キャラの再登場が行われます。犬鳴のクソガキはわおーんと啼き、Youtuberアッキーナは(2回死んでんのに)転生体として3度目の登場を果たす。まさかゴミのようなファンサービスでもあるまい…それなら、クロスオーバーとして捉えるのが自然でしょう。

 「村」設定、配給が東映、ユニバース化、清水監督…。これらの要素をひっくるめ、一つの予想が成り立ちます。村シリーズは最後、東映えいが村になる筈です!!
 映画のエロ・グロを規制せんとする、教育委員会やポリコリの奸賊ども。彼奴等を成敗すべく、転生し現世に潜伏するバケモン共が村アベンジャーズを結成!バケモン総大将として、伽椰子も友情出演して良いでしょう(東映且つ清水作品です)!
 
 パンフで「シリーズ化の想定はなかった」なんて言ってますが、全国公開の大作映画で1年1本ペースで作るものは完全に企画ありきです。特撮やファミリーアニメと違い、実写映画のコンテンツ力に関しては邦画は地の底を這うようなもの。コミック実写化は9割が駄作止まり、High&Lowブームも終息した今、シリーズがコンスタントに続く実写邦画ってコンフィデンスマンJPしかないですよ?そんな情勢だからこそ、ホラーという鉄板ジャンルでシリーズ&ユニバース化を進めるってのは、戦略してマジでありだと思ってます。
 


⑩結びに
 前半絶賛しましたが、飽くまで(ゴミのような過去2作と相対比較して)マシってだけです。クソ映画ハンターにしか勧められる代物ではありません。
 しかしウラを返せば、進歩しているのも事実。這えば立て、立てば歩めの親心で見守っていきたい…そんなクソ映画成長日記を続けたいのも山々ですが、DiaryNoteは今月末でサ終です。当ブログでクソ映画を長々語るのはこれで最期でしょうが、皆さんもどうか良きクソ映画ライフを。





 はい!!!!6千字評でした!!!!皆も観に行って不幸になれ!!!
村シリーズなのに!まともな映画!!

 1時間半の地点までは!!!


 …お決まりのタイムスリップをカマしてからは、安定のゴミホラー化。「待ってました清水監督!クソ映画!」と心の中で快哉を叫んでました。

 近いうちに酷評レビューします。でも「かなり」好意的な貶し方になると思います。
『ナイル殺人事件』を貶し半分でレビューする
 ミステリのネタバレ含みます。

粗筋 美貌の資産家、リネットは友人ジャクリーヌの婚約者サイモンを奪い取って結婚。ナイル川を遡るハネムーンクルーズに旅立ったため、ジャクリーヌは道々で姿を現し復讐をたくらむ。恐怖を感じたリネットは偶然居合わせた名探偵ポアロに解決を求めるのだが、豪華客船で夜半銃声が鳴り響き…。


①作品概説
 原作は言わずと知れた、ミステリの女王アガサ・クリスティの小説。これまで余多の映像化を経たポアロシリーズを、名優ケネス・ブラナーが映画化。前作『オリエント急行殺人事件』は2017年に劇場公開され大ヒットを記録した。
 アガサ・クリスティ作品の特徴を挙げるなら、「人物描写と伏線筆致の見事さ」に尽きるだろう。古典ミステリゆえ、現代からすればトリックはそこまで目新しく感じない。だが、その提示が真に周到。それぞれに事情を抱えた登場人物たちが、犯行/事件への巻き込まれを通じて「うっかり」本音をさらけ出してしまう。ポアロは観察と尋問を通じて欠片たちを拾い集め、事件の全体像を浮かび上がらせていく…。読み返せばきちんと理に落ち、尚且つ彼らに感情移入してしまう、ロジックと感情どちらも満たせるエンタメミステリなのだ。


②改変の是非:オリエント急行
 前作『オリエント急行殺人事件』は駄作だった。何故なら原作を弄ったがゆえに、ミステリとして成立していないからだ。
 『オリエント~』のトリックは「全員共犯」だ。デイジー事件がきっかけで人生を壊された複数人が、周到に計画を立ててオリエント急行に乗り込む。ところが名探偵が乗り合わせたために急ごしらえの嘘を吐いて、互いのアリバイを庇い合う。目ざといポアロは小さな嘘を拾い集め、乗客の素性を細大漏らさず割り出していく…。
 しかしケネスブラナーは独自要素を打ち出し、ミステリーの肝たる伏線/回収をなおざりにした。その結果、時間トリックはうやむやになり、「赤い着物の女性」など回収されない無駄シーンは杜撰にも放置された。原作と違い医者は犯人サイドに与するのだが…彼が死亡推定時刻を弄れば万事済むのでは?という疑問も出てしまうほどだ。



③『ナイル~』における改変
 以上と比較するなら、今作の改変は「許容できる」ものだ。
 先ず、『ナイル~』の謎構造。『オリエント~』は身分の偽装→何故乗車したのか、と嘘/謎が殺人事件に直結する作りだった。対して今作は、本筋と関係ない謎が多い。「凶悪政治犯の潜伏」「親子の確執」「恋愛・男女観」とサブストーリーがあり、各人がポアロに嘘を吐いている。それを逐一解きほぐし、殺人事件と弁別していくドラマが展開していく。

 ゆえに、人物配置や人間関係を大幅に改変しても齟齬が起きない。『オリエント~』の車掌ブークを再登場させ狂言回し役&第三の犠牲者にしたり、人種問題/同性愛などの現代テーマを付加してもOKだ。
 個人的に、全ての乗船者がリネットと関係する=動機があるとした改変には賛成だ。映画でもサブストーリーを展開すると話がとっ散らかるし、何より前作と対照的な作りになるからだ。『オリエント~』は(一見)誰にも動機がないミステリー…ならば『ナイル~』を全ての人が疑わしいとした方が、マンネリ感も薄れるだろう。


④ミステリ映画としての出来
 だが矢張り、ミステリ映画としては稚拙だ。
 第一に、またぞろ「時間感覚のない」ミステリーとなっている。第一の事件であるリネット殺害は、真夜中に発生した。原作小説においては乗船客の内、動機のあるグループにはアリバイがあり、アリバイのないグループには動機がない。時間が分刻みで辿れるからこそ、犯人は一人に絞れるのだが…映画はそこが蔑ろなため、ポアロの充て推量感が高まってしまう。
 
 次に、伏線描写の薄さだ。ネタバレになるが、『ナイル~』のトリックは「交換殺人」だ。元カップルのジャクリーン・サイモンは裏で繋がっており、財産或いは愛のために殺人を犯す。第一の殺人では狂言銃撃を企て、(この段階では無傷の)サイモンがリネットを殺す。第2・3の事件ではサイモンにアリバイがある中でジャクリーンが殺人を犯す。かくして単独では実行不可能な殺人を完遂させるのだ。
 原作では、伏線の巡らせ方が周到だ。サイモンが「撃たれた」後では、くどいほど怪我の描写が入る。そのため読者は、彼を容疑者リストから外すよう見事にも誘導される。空砲と赤インクのネタバレは、衝撃を持って受け入れられる。
 また、第二の事件では生存の被害者は奇妙な仄めかしをするが、会話の席にサイモンが居たがゆえの行動だった。或いは第三の事件では、ジャクリーンの射撃の腕前についてメロドラマパートで触れられていた。
 かような伏線が、映画では貼られていない。そのため(『オリエント~』と同じだが)、ポアロの一人相撲感が高まってしまう。犯人が自供したから助かったようなものだ。


⑤ケネス・ブラナーの過去作
 なぜこうなるのか。一言でいえば、ケネス・ブラナーが良く言えばアレンジ、悪く言えば原作/ジャンルを軽視するからだ。
 アレンジが功を奏したものなら、『マイティー・ソー』が好例だ。マーベル原作のコミック映画なのだが、ケネスは(シェイクスピア俳優なだけに)シェイクスピア要素をふんだんに盛り込んだ。MCUにしてはアクションが少ない1作だが、シェイクスピア劇の大仰さとコミック映画の外連味が見事にマッチ。また、「大いなる力を持つ者のエゴと孤独」というテーマは、ケネス版ポアロの造形に通じるところが多い。

 最悪だったものなら、『エージェント・ライアン』が挙がる。特殊工作員ジャンル、それもあのトム・クランシー原作ならリアル&シリアスになるべきなのに、この映画のスパイ劇は何とも間抜けだ。パンピー女性が、何故か喜々として恋人の仕事を手伝い出す。ラスボスを出し抜く作戦では、機密アイテムの入った財布をぶつかって掏摸し、もう一度ぶつかって懐に戻す。これは…コントじゃな?

 主人公の内面を深堀りするのは良い。だが、ジャンル映画としての出来は…どれも高いとは言えない。


⑥結びに
『オリエント~』に続き、美術や撮影は流石に素晴らしい。太陽降り注ぐエジプトの観光、カルナック号のクルーズは目も綾なシーンだ。だが、そのカルナック号の客室配置を原作から変え、リネットが殺害される寝室を船尾にしてしまった。
 船首2Fで狂言銃撃を実行し、居合わせたブークが医者を呼んで戻るまでに船尾への往復、殺害、銃による自傷&隠匿を誰にも見られず熟せるのか?映像的に不可能なのだが、ケネス・ブラナーの念頭には無かったのだろう。彼はミステリを語る気がないのだから。

 最後に一作紹介して締めることとする。ライアン・クーグラー監督の『ナイヴズアウト』だ。大富豪の死、個性豊かな面々が集まる洋館での殺人など、クリスティーオマージュは随所にある。だがこの作品が素晴らしいのは、伏線を映像で回収してくれるからだ。
 番犬の反応、ボケ老婆の言葉、突発嘔吐症など、シュールギャグに思えた小ネタの全てが、安楽椅子探偵の種明かしで回収されていく。謎は全て解消され、最後に残るのは爽快感だけ。映画だって、パズラーミステリーは魅せられる。
 
 




3000字評でした。映像綺麗で名優いっぱい出てるけど…それだけだな…。
思い出の映画100選 ~暗い青春映画~
え、明るい青春ってあるの?(陰キャ特有の発想



・レクイエムフォードリーム,2000
 4つの季節の中で、薬物で転落していく4人を描く鬱映画。ヘロイン中毒で窶れていく売人、その恋人でデザイナーを夢見る少女、別天地を求める売人仲間、ダイエットのために向精神薬に溺れる老婆…。どん底人生で一度は夏を体験し、秋(Fall=転落)を迎えていく。
 悲壮な表題曲が流れる中、皆が幸せな夢に逃げ込んで胎児座りになるエンディングはあまりにも有名。スポットライトが否定を示す「×」になるラストカットはね…もうね…。
https://www.youtube.com/watch?v=nLQgcZnZq6A


・アメリカンアニマルズ,2019
https://magiclazy.diarynote.jp/201905202135076454/
 評した通り。救済を劇映画というフィクション内に求めるのではなく、ドキュメンタリー性に託す構成はまことに見事。


・サマーオブ84,2019
https://magiclazy.diarynote.jp/202007251630441491/
 これも評した通り。自業自得と呼ぶには余りにハードだけど、好奇心の報いとして必然性のある結末。


・バッドジーニアス,2018
 中国で起きた集団カンニング事件を元に、舞台をタイに置き換えたクライム青春もの。
 4人チームによるケイパー要素、ピアノ音階や時差を活かしたカンニング描写のディテール、絶望的なまでの格差社会構造など、見所は多数ある。でも、青春映画としての要素も外せない。
 チームに最後に加わった少年は、最も純朴な性格だった。作戦を続けるうち、主人公と淡い恋仲にもなった。けれど彼一人が割を食う結果となり、1年経って再開した時には一端の替え玉屋に変貌していた…。忠告しに来た主人公に言い放つ、「お前が引き込んだせいじゃないか!」の言葉は余りに重い。


・オカルト,2009
 通り魔事件を追う映像ディレクター。被害達は一様に「神の啓示」を語るが、その中でひときわ異様な青年が居た。危険思想を語る彼に初めは忌避感を覚えるディレクターも、取材を続けるうちに奇妙な友情が芽生え始め…。土俗系オカルト色の強いホラー映画だが、僕は青春映画として評価したい。
 撮影対象の暴力性に撮り手側も感化されて…という映画は(白石監督自身も影響を名言しているが)『ありふれた事件』など前例がある。その中で今作の特異性を挙げるならば、その底辺描写のリアルさだ。派遣日雇い労働のディティール、底辺仲間の「ヤカラ」感、カップ焼きそばやマックを食べるときの「グルメネタ」、寝泊まり出来る部屋を確保出来たときの充足ぶり…。どれもがみじめで、切実で、胸に迫る。

 白石監督のフィルモグラフィーでいえば、(アイドルDVDばっかり作らされていた)低迷期にこの映画は作られた。「コワすぎ」シリーズがカルト的な人気を呼び、再び人気監督に咲き返った白石監督。だが雇われ映画ばかりを撮って、野心的な低予算映画に戻ってくれない現状には、一抹の寂しさをファンとしては覚えてしまう。

コワすぎ完結させて?
スパイダーマン:ファーフロムホーム
 今更観てきました。いやーすげー詰まんなかったすね。

 まず脚本面。ワンパ過ぎません?1は「少年がヤンチャするも大人2人に窘められる話」。2は「(サノス戦経験しておきながら)青春したいとゴネる話」。そして3作目の今作が「ゴネて世界を危機にさらす話」。自分のエゴで世界規模の迷惑をかけて、それを挽回する展開を続けてしている。結局、全世界に自分の存在を忘れられるしんみりエンドになるんだけど…いや自業自得だしなあ…。
 もう一点、マルチバースから侵入して来たヴィランの処遇の問題。彼らは死の瞬間にこの世界に来たため、強制送還してはそのまま死んでしまう。そのため「治療」してから返すことで、運命を変える…というもの。ピーターは叔母ゆずりの正義感で治療を選んだがゆえにその叔母が途中で死ぬんだけど…この選択する意味あった?
 平行世界SFしかり時間SFしかり、取った選択の「答え合わせ」が必要だと思うんですよ。「インフィニティーウォー」+「エンドゲーム」におけるストレンジの選択も、まさしく「辛い経験だが最良で唯一の決断」だった訳じゃないですか?
 メイの犠牲のうえで5人は運命を変えた(らしい)のであれば、各自戻った平行世界の姿を映してほしかった。ドックオクと共闘するトビースパイダーの画だとか、エレクトロと研究室で語るガーフィールドスパイダーの姿だとか。ピーター自身は知らずとも、「観客だけは」これが最善だと受け取れる。それならばこの選択も尊くなるんだがなあ。

 次にアクション。橋上の初戦、ミラーディメンションでの対ストレンジ戦は好いけど、ラストバトルがすげー見づらいね。折角自由の女神で戦うんだから、もっと高低差を活かした構図にしなきゃ。解毒剤を女神像の下・中・上それぞれに配し3on3で戦おうとするが、想定と違う組み合わせになってしまう。そのため各自階層を変えて戦う…とかさ。CGはすごいんだけど、どこで何やってんのか把握出来ない。
 残念だったのは、スパイダーマン3人の個性がアクションに出てなかったところ。戦隊ヒーロー大集合が楽しいのは、持ち味を生かした戦いがもう一度見られるからじゃない。トビーはパワー系、ガーフィールドは身のこなしとカメラワーク、そしてホランドはトニえもんのひみつ道具…って個性を出して戦ってよ。

 最後に、ファンサービス。クドい…というかダレる。何故なら「会話のための会話」を続けて、話が全く進行してないから。ベンおじさんの言葉、MJの死といったシリアスなものから、ウェブシュートの原理、戦ったヴィラン自慢といったコメディ小ネタに至るまで、ぜ~んぶ立ち話(座り話)で続けるのよ。これ、何かしながらじゃダメ?
 解毒剤を調合しながら(ウェブで材料をパスし合いながらだと更に良い)、ウェブシュートで移動しながら、女神像で準備しながら、戦闘の最中に軽口交じりで…。そういう「何かをしながらネタ挟む」なら、話を停滞させることなく情報量が増すのになあ…。この映画150分あるけど、会話シーンだけで10分は削れるでしょ。
 そういう意味では、冒頭でデアデビルを出したり、マルチバースの雲越しにクレイヴン・ザ・ハンターやマダム・ウェブをちょい見せしたのはスマートだね。分かる人にだけ分かるやり方で、さらっと流すのが良い。


 比較にならない名作だけど、スパイダーバースは1作だけでマルチバース設定・少年の少年譚を描き切っていたよ。スパイダーバース見よう。what’s up danger?のシーンはマジでエモい。
https://www.youtube.com/watch?v=DVz0tIIwyhM
思い出の映画100選 ~西部劇~
思い出の映画100選 ~西部劇~
 西部劇ってザックリし過ぎだな。第二弾書くかも。


・荒野の七人,1960
 初っ端から弩メジャー作品だが、西部劇と言えばこれ。登場人物が誰も彼も恰好良すぎる。序盤の護送シーンに始まり、一人づつ仲間集めをするシーンのわくわく感は堪らない。
 この映画、吹替訳も本当に素晴らしい。クリスが死にゆくハリーに優しい嘘をかけるシーンで

"I’ll be damned!" "Maybe you won’t."を
「来てよかったぜ」「黄金の夢を見ろ

とする名訳ぶりよ!(正確な訳なら「地獄行きだな…」「行き先は別さ」辺り)


・リバティ・バランスを撃った男,1962
 たびたび書いてきた「西部劇=誰かの幸せのために犠牲になり、静かに去っていく男を描く」というテーマを体現した作品。
 法律を学んだ若者ランスと、実力で無法者と戦うトム。トムは町の美女ランスを密かに好いていたが、ランスのために身を引き、荒くれの領袖リバティ・バランスを撃つ…。
 しかも、その挺身が後から明かされる脚本が本当に憎い。人知れずランスの決闘を手助けし、打ち明けず墓場まで持って行った…。蓋棺事定とはよく言ったもので、死後に彼の偉業は日の目を見た。


・小鹿物語,1946
 壮年男性と少年、と言えば西部劇では前者が主人公になるものだが、本作は少年を中心に話が回る。
 貧しく過酷な開拓地を生きる親子は、ある日小鹿を拾うことになる。小鹿と息子は仲睦まじく成長するが、小鹿が作物を食い荒らしたことで父は小鹿の処分を決める…。
 ここからの展開が凄まじい。初撃では致命傷が与えられず、父は自分の手でとどめを刺すよう命じる。涙ながらに打ち殺した少年は父親に悪罵の限りを尽くす。
「あんたはずっとフラッグが嫌いだっただろ!だからやらせた!死んでしまえ!二度と顔を合わせてやるもんか!!」
激情に駆られたまま彼は家出をし、激動の旅を終え帰ってくると大人の顔つきをしている…。前半の陽気さからは想像も出来ぬ、ほろ苦い成長で幕を閉じる。



・ハンター,1980
 名優の遺作・引退作というのは、特別な印象を持つものだ。西部とアウトローのシンボルだったスティーブ・マックイーンの遺作がこの『ハンター』だ。マックイーンは後年、映画の出演を断り続けた。体調が悪化したのち『トマホーン』(1979)と『ハンター』に出演し、間もなく肺癌で亡くなった。
 『トマホーン』は何とも寒々しい映画だ。かつての英雄も、時代の流れに逆らえずお払い箱になる。無実の罪で死刑判決が下され、絞首台の下にお守りが散らばるカットでクレジットが流れ出す。
 『ハンター』は『トマホーン』と並べて観ると何とも味わいのある映画だ。現代に生きるバウンティハンターが、恋人の妊娠で人生を見つめ直す。荒くれを気取った生活で彼女を危険に晒すが、出産は無事に済む。我が子のクシャミに対し、"Bless you."と声をかけ映画は終わる。無論、この言葉はクシャミに対する定型句だ。だが、この世に生を受けた赤子に対し、間もなく天に召されるマックイーンがかけた最後のセリフだと思うと、感慨もひと塩に思えるのだ。


・ノーカントリー,2007
 西部劇において、「時代遅れ」にはノスタルジーが付きまとう。僅か50年だけ存在した、西部の荒野に流れた暴力とロマンの空気。開拓地に法と秩序と資本主義が浸透し現代アメリカが成立するのだが、過ぎ去った時代に恐れと敬意を人は抱いてしまう。
 だが、この映画は違う。時代の変化によって到来するのは、野望も人情も理屈も存在しない、ただの荒廃。それを体現した悪魔として、アントン・シガーは息をするように人を殺していく。
https://www.youtube.com/watch?v=Lp3VHEL4wm8
現代における「西部」とはメキシコ国境と麻薬戦争だ。ヴィルヌーヴの『ボーダーライン』、リドリースコットの『悪の法則』なども描いたように、そこには誰一人理解しきれないような、茫漠たる荒廃しかない。

 西部劇は終わってしまったジャンルだが、タランティーノ、テイラーシェリダン、そしてイーストウッドなどの監督が新たな名作を作り出している。だが現代西部劇で一作だけ選ぶなら、私は迷わず『ノーカントリー』を挙げる。






https://www.nicovideo.jp/watch/sm3730481
 ノーカントリー評でいえば、エガちゃんの映画漫談ほどこの空気感を伝えられるものはないわ。
『ウエスト・サイド・ストーリー』
粗筋 50年代NY。プエルトリコ移民のゴロツキ「シャークス」と白人集団「ジェッツ」が縄張りを巡り争っていた。かつてジェッツの頭を張っていたトニーは服役し、改心。だがジェッツのメンバーは仮釈放中のトニーをしきりに戻したがる。誘いを拒み切れず訪れたダンスパーティーで、彼はシャークスのボス、ベルナルドの妹であるマリアに一目惚れしてしまう…。


①作品概説
 伝説のミュージカルであり、1961年に映画化されポップアイコンとなった『ウエストサイド物語』。巨匠スティーヴン・スピルバーグが舞台時代はそのままに、新たに再映画化したのが今作『ウエスト・サイド・ストーリー』となる。
 50年代風景を徹底的に再現した美術、バーナード・ハーマンの名盤など、オリジナル作品への敬意は随所に見える。だが、大きく改変した部分もある。ジェッツ・シャークスの面々にはハードな過去設定が背負わされ、決闘シーンは緊迫感に満ちたものになるなど、よりダークな雰囲気に。何より、61年版では白人が演じていたシャークスの面々をプエルトリコ人・ラテン系の役者で固め、より人種多様性を目指した「現代的な」映画となっている。


②現代性と『ミュンヘン』
 この映画のメッセージ性は何か。それは現代アメリカの分断と憎悪の糾弾である。
『ウエストサイド物語』は、周知の通り『ロミオとジュリエット』をベースとしている。宿怨の2派の下に生まれついてしまった男女、道ならぬ恋を諦められず永遠の愛を誓うが、決闘で進退窮まり駆け落ちしようとする。ところが嘘によって自暴自棄になり、悲劇的な結末を迎える…。だが、今作がロミジュリ、ウエストサイド物語とも違うのは、「憎悪による報復合戦は何も生まない」と強く打ち出しているところだ。

 監督の過去作に、『ミュンヘン』がある。ミュンヘンオリンピックでイスラエル選手団がテロの標的に遭い、全員死亡。イスラエル政府は事件を首謀したパレスチナ過激派11人に報復を決意し、暗殺チームを差し向ける…。
 この映画は、報復を英雄的に描いていない。凄惨な暗殺は更なる報復を呼び、暗殺チームも一人また一人と狩られていく。最後に映されるのは、CGで再現された貿易センタービル。過去を描きながらも、ブッシュ政権が行っていたテロに対する戦争を痛烈に批判したのだ。

 
③『リンカーン』
 そうしたスピルバーグの過去作と比べ、今作はどうか。私は生温いように思う。一つには、主人公のトニーがジェッツ寄りであり、両派を繋ぐ(=アメリカの分断を解消する)役割を負っていないところ。『ミュンヘン』はイスラエル、パレスチナどちらにも与しない中立的立場から描いたせいで、スピルバーグは双方から批判を受けた。
 2点目として挙げたいのは、トニーは「現実的な和解」を何ら模索していない点である。政治用語で『レアルポリティーク』という言葉があるが、これを描いたスピルバーグの過去作として、『リンカーン』も紹介したい。

 リンカーン大統領は、従来「劇的な」描かれ方をされてきた。ゲティスバーグ演説、奴隷解放宣言、そして暗殺…。だが、『リンカーン』で描かれるのは合衆国憲法修正13条の通過、これだけである。奴隷解放宣言は宣下されたものの、北部側で参戦した州には免除された州が多く、南部に至っては通用する筈もない。有名無実な宣言に実行力を持たせるべく、保守への切り崩し・左派への妥協工作と両者への根回しを進めていくのだ。
『リンカーン』における現代性とは何だったのか。それは当時のオバマ大統領が成立させた国民皆保険制(オバマケア)の成立風景である。保守・リベラルで先鋭化し議論を停滞させるのではなく、折衝と妥協の果てに法案を成立させるという難行を、歴史劇で見せたのだ。


④レアルポリティークとしての主人公像
 以降のスピルバーグ作品は、(政治色の強い作品は)この系譜を貫いている。 
 『ブリッジオブスパイ』の主人公は、冷戦バリバリの時期にソ連スパイを弁護し、捕虜交換などの現実的な駆け引きの先に彼を母国へと返した。或いは『ペンタゴンペーパーズ』においては、女社主は株主の突き上げ、政治家との付き合い、政府の圧力など様々な力関係を綱渡りする中で、報道の独立性を選び取る苦悩を描いていた。

 そうした作品と比べると、どうにも『ウェストサイドストーリー』のトニーは夢見がちに映るのだ。『BFG』や『レディプレイヤーワン』のようなファンタジー作品ではない。元からして社会性のある原作を、上述した通りわざわざトランプ時代以降のアメリカを反映した作りにしているのだ。それなのに…トニーが口を開けば飛び出すのは、マリアへの愛の言葉だけだ。
 ウェストサイド好きにはすんません!でも、てめぇの恋路が原因で殺し合いに発展するって事態なのに「今夜は~今夜は~駆け落ちだ~♪」って暢気すぎません?
 対話を試みてみたり、過激派から銃を取り上げようと行動はする。でも、決定的な破局は、当のトニーがベルナルドをぶち殺したことで訪れる。挙句の果てに、その晩にマリアの寝所に忍んでしっぽりって…良い気なモンじゃねえかな?

 
 原作がそう?そりゃそう。でも、わざわざシリアスなタッチにして、しかもスピルバーグが監督するのなら、もっと違うトニー像で良かったと思うんですよ。リアリティラインを現実に近づけたがゆえに、却って恋愛の身勝手さが浮かび上がってしまう。


⑤結びに
https://magiclazy.diarynote.jp/202011100043418635/
 1年前、『ザ・ハント』という映画を評した。オバマと同じく、バイデンも口だけ中道リーダーに終わらなければ良いが…そんな危惧は現実になってしまった。ただの悪口おじいちゃんだったからね?
 今作の制作公表は2019年。トランプが加速させた分断に飽き、アメリカは融和を望んだ。暴力的な保守でも、冷笑的なリベラルでもない、中道的で現実的な指導者が。だが現実の大統領にも、フィクションの中のリーダーにも、その姿は認められない。




 以上、スピルバーグのフィルモグラフィーから読み解くウェストサイド評でした。ぶっちゃけ、現代でリメイクする意義はあったんかね?
思い出の映画100選 ~毒親映画~
思い出の映画100選 ~毒親映画~
 突発で始める映画100選企画、初回のテーマは毒親で。人格歪めた最大の要因であり、映画に耽溺(逃避)するきっかけもこれだからなー。



・キャリー,1976
 生物学者ドーキンスは名著『神は妄想である』で斯く語る。
宗教は、本来多様であるべき価値観を一つに固定する。のみならず、それを自分の子供に押し付ける。
そのため、子供たちに本来開かれるハズだった扉が閉ざされ、子々孫々まで継がれてしまう。

 戦後アメリカではキリスト教原理主義が幅を利かせてきたが、その弊害を描いたのが今作『キャリー』だ。キャリーの母は若くして妊娠し、男に捨てられたがために宗教に狂奔するようになった(原理主義派は”神に与えられた生命を弄ばない”=避妊をしないため、若年層の妊娠率が異常に高い)。その押し付けは娘の精神を蝕み、超能力として発現していく。
 この映画がもの哀しいのは、プロムでの一瞬の輝きがあるからだ。シシー・スペイセク演じるキャリーは、決して美人ではない。だが普段はしないお化粧をし、身嗜みを整えてプロムに臨む。千紫万紅の照明に照らされ、踊り続けるキャリーにエスコート役もときめいてしまう…。もしかしたらあり得たかもしれない「普通の幸せ」が垣間見せるからこそ、それに続く大虐殺シーンとの落差が際立つ。
 
 2013年のリメイクに足りないのはここだ。だってクロエ・モレッツ、美人過ぎんだもん。男が寄ってこないのは無理あるって。


・この子の七つのお祝いに,1982
「お父さんは私たちを捨てた悪い人。だから恨みなさい、憎みなさい、大きくなったら復讐するの…」。毒親に吹き込まれ続け、7つを迎えた日に目の前で壮絶な自殺を遂げられる娘…復讐鬼と化した岩下志麻の演技がまー凄い。
 岩下志麻と言えば、清張原作の『鬼畜』においても継子を虐め殺す怪演を遂げている。還暦過ぎても「アイドル役以外嫌ですからね!」と演技の幅を広げないY永S百合に煎じて飲ませてやりたい1作だ。


・ヘレディタリー,2018
 21世紀最高のホラーと称される、アリ・アスター監督作品。
 その魅力は、丹念に描写と伏線を積み重ねて提示される、逃れられぬ宿命観。母と息子を巡る、血も凍るようないがみ合いのシーン。(因みに、アリ・アスターの卒業制作は「父親でシコってたことをばれて、家庭が崩壊していく」物語である)
https://www.youtube.com/watch?v=7uWQVdNKUrk
だが最も心に残るのは、ラストにもたらされる奇妙な祝祭感だ。一家は全員死に絶えるが、悪魔側から見れば念願の依り代を得たことになる。最新作『ミッドサマー』にも通じる、価値観の変転と解放を描いた映画だ。


・葛城事件,2016
 今回紹介する映画の中で最もリアルで、最も空しい気持ちになる一作。
 上記3作と違い、今作の親は「イカれた」親ではない。ただ、家族の噛み合い方が上手くいかなかったのだ。一国一城を切り盛りしてきた昔気質の父親、子供を優しく見守るが誰にも強く出られない母親、父の云い分に従い続け潰れてしまう長男、父権的な父にも優秀な兄にも鬱屈をため続ける次男…。一人でなら狂わなかったかもしれないが、肌の合わぬ家族との摩擦で心が擦り切れ、孤独を深めてしまう…。
 この家族は誰にも罪がなく、そして罪深い。


・きっと、うまくいく,2009
 インド映画史に残る、傑作青春映画。
 理系最高格のインド工科大に通う3人が、自分らしい幸せを模索していく。その一人、ファルハーンは写真家になる夢を父親から固く拒絶されている。もちろん、父親の言い分に社会的な合理性はある。
 一つには、インドは学部差別が歴然としている。近年のインド映画のテーマとして”無職の大卒”がある。数学と機械工学はインド発展の要ゆえ引く手数多だが、人文科学は無用の長物扱いだ。ゆえに工学系、しかも工科大にまで行ってIT系に向かわないのは「まともな」人生ではない。
 もう一つには、カースト制の存在がある。カーストはヒンドゥー教の根幹を成す社会制度だ。本来階層別に峻別されていた就業だが、一流大学に合格すれば一流企業へのパスポートになる。そのためカースト低位の子供は、一族の期待を一身に背負い受験戦争へと突き進まされていく。そのため、インドの学生(受験のみならず就職活動に至るまで)へのプレッシャーは重く、受験生や工科大生の自殺率は異常に高い。

 それを踏まえてもなお、ファルハーンは父親に跪いて頼む。「これまでずっと父さんに従ってきた。でも、初めてやりたいことが出来た、後生だから、僕の夢を奪わないでくれ」、と。
https://www.youtube.com/watch?v=vWouk7Y38RE
 序盤で、プレッシャーに耐え兼ね自殺した先輩のジョイ・ロボが出ていたからこそ、了承を与えられる場面は感動的だ。僕はこのシーンを見るたび、親の理解を得られなかった自分と引き比べて泣いてしまう。他罰的で不健康な浸り方だが、あり得たかもしれない別の人生を思い描いてしまう。
『オマージュ』軸で二本立て評『ゴーストバスターズ アフターライフ』『バイオハザード ウェルカムトゥラクーンシティ』
『オマージュ』軸で二本立て評『ゴーストバスターズ アフターライフ』『バイオハザード ウェルカムトゥラクーンシティ』
〇ゴーストバスターズ

粗筋 或る老人が死んだ。それをきっかけに、娘家族は遺された農場に移住する。老人の孫娘フィービーは怪しげな機械に導かれるまま、地下の秘密ラボに足を踏み入れる。ロッカーにかかったジャケットには「スペングラ―」の文字が。そう、彼女の祖父は伝説のゴーストバスターズが一人、イゴン・スペングラ―だった。


①ノスタルジー爆弾盛り
 本作は『1』の30年後を舞台にした続編ということもあり、随所に過去作のネタがちりばめられています。主要キャラの再登場は勿論のこと、ゴーザ・マシュマロマン・マンチャ―といった敵キャラも出れば、霊柩バスター車「ECTO1」やトラッパー(捕獲器)といった往年のアイテムも出る。更には"Who do you call?"の台詞やセレン鉱の設定、冒頭での椅子カバーを突き破る演出に至るまで、とにかく1を徹底的に意識した作りになっています。


②80年代ノスタルジー
 おまけにこの映画、ここ10年くらい流行りの「80年代ノスタルジー」ジャンルにも乗っかってるんですよ。少年少女の冒険、経済苦の一家といった設定はまるきり『グーニーズ』やスピルバーグ作品のド定番。サマースクールで見せる映画は『クジョー』『チャイルドプレイ』といった当時の作品(わざわざVHSデッキで見せる辺りも憎い!)。フィービーの相棒少年が持つゴテゴテした秘密道具、パズルを解いて出てくる鍵、滑車ゴンドラで降りた先には広大な地下宮殿が…。
 ノスタルジー×ノスタルジーでアラフィフ世代を殺す映画になっています。


③ファンムービーの是非:立ち位置
 過去の評で「ファンムービーってどうなん?」と言った手前、
https://magiclazy.diarynote.jp/?day=20200820
2枚舌になりますが僕は今作大絶賛派です。少なくとも、今作には必然性があるからです。

 先ず第一に、本作はオリジナルを焼き直すのではなくノスタルジーの対象としている点。これを説明するのに、2016年のリブート版『ゴーストバスターズ』と比較する必要があります。
 あちらはポールフェイグ監督×メリッサマッカーシーのコンビによる、『ウーマンス』(女性の同性友情もの)路線でした。4人チームの性別だけ逆転させて、1作目を再解釈したわけです。
 ただまあ…あちらは(特に古参ファンから激烈な)酷評を受けました。折しもポリコレ→反動保守の波が映画ファンにも広がり始めていたという時代性もあります。ですが、(上っ面だけの)焼き直しだったのにも原因があると思うのです。

 ゴーストバスターズ1は、サタデーナイトライブ組のコメディセンス、NY文化を盛り込んだまさしく時代の体現者。映画の出来良しあしを超えた、「売れるべくして売れた」映画だったのです。
 ゆえに、1をそっくり踏襲した筈の『ゴーストバスターズ2』は酷評されました。アイヴァンライトマン監督はその原因を
the shift of the zeitgeist(時代精神が変わってしまった)
と語っています。

 2の失敗を踏まえると、またぞろ焼き直し路線に走ったバスターズ(2016)が陳腐に見えるのも当然のこと。ゆえに、今回のバスターズ(2022)が相対化目線を持っているのは良きことです。


④故ハロルド・ライミスへの愛
 もう一つの理由が、俳優ハロルドに捧げられた作品だという点。彼はオリジナルメンバーで、既に鬼籍入りしています。

 そもそもの話をすれば、2016年版バスターズは当初『3』の予定でした。ところがハロルドが亡くなり、アイヴァンライトマン監督が降板した。それを急遽全く別の企画として再始動したという流れなのです。
 今作には、そのハロルドへの敬愛が満ちています。フィービーが宿敵ゴーザと対決するラストバトルで、レーザーノズルを握る手がそっと支えられる。スペングラーのゴーストという作品上の設定と重ねられて、ハロルドがもう一度銀幕に現れる。存命の老バスターズ3人と並んでイゴンが(孫越しに)立ち、「4人」でバスティングに臨む…。虚実幽明の被膜を通した、何とも感動的な画です。

 やっぱね、『1』へのリスペクトが違ェんすわ!!2016年版は沢山カメオ出演使う割に扱いがなおざりで、その癖ラストにハロルドへの献辞をいけしゃあしゃあと付ける。
 それと今作比べてみて下さいよ!CGばっかの2016年版と違って、鍵の神に追われるシーンではわざとコマ撮り風の動きを見せる。砂埃に塗れたECTO-1が消火栓の脇を通り過ぎるときに、さっと水を被ってバスターズマークが鮮やかに姿を現す…。監督はアイヴァンライトマンの息子、ジェイソンライトマンなだけあって、『1』の精神をよく分かってんだよ!!!


⑤ポリコレなんぞクソ喰らえ!
 別観点を最後に一つ。今作、ビックリするほどポリコレから外れてます。2016年版は保守側から(女性蔑視的な)揶揄を受けたように、ポリコレの波に乗った一作だったワケです。あれから6年、ポリコレムーヴメントは止むどころかずーーーっと続いてる、その中で今作はゴリッゴリの正道保守。
 一応、アジア系や黒人が申し訳程度に出てはいる。けれど登場人物の大半は白人、おまけに3組の男女カップルが成立して一人たりともゲイが出ない。
 極めつけが、エンドクレジット後のおまけ映像。シガニーウィーバー×ビルマーレイのファンサービスが付くんですが、あれ元々ナンパテクニックの話ですよ?ビルの演じるヴェンクマンは、ワインスタイン騒動のあった現代からすれば相当危ないキャラ。ファンは兎も角、自称リベラル層が今作をどう見るのかには不安が残りますね…。


⑥結びに
 映画としての出来が良いとは言いません。若い人が観て楽しいとも思いません。それでも、1が好きな人なら号泣して涙腺が千切れること必至の1本です。




〇バイオハザード

粗筋 アンブレラ社が撤退を始め、ゴーストタウン化したラクーンシティ。Tウイルスが流出したことから社は全市を封鎖、住民は夜明けの破滅を知ることもなく閉じ込められてしまう。レッドフィールド兄妹は、果たして生きてこの町を出られるのか。


①小ネタ爆盛り
 今作もまた、オマージュをふんだんに取り入れた作品です。ベースとなっているのがゲームの「バイオハザード1」「バイオハザード2」の2作。1の洋館探索、2のラクーンシティ脱出を同時並行させ、群像劇仕立てにしています。

…んだけどさあ、クッソ詰まんなかったです。その詰まんなさを説明するのに、映画版バイオシリーズを振り返っていきます。


②映画『バイオハザード』
 通称「ダメな方のポール・アンダーソン』が撮り、ミラジョボヴィッチが主演した映画シリーズ。「1は名作、2はそこそこ、3以降はゴミ」というのが大方の共通認識だと思います。それでは何故、1は良かったのか?
 それはあのスタイリッシュなルックでしょう。無機質で硬質なハイブの風景、黒くてゴツい服に身を包んだ特殊隊員、主人公のアリスは対照的に真紅のワンピースとブーツの出で立ち。ハードなガンアクションや流行りのバレットタイム演出を取り入れ、容赦のないゴアシーンもある。無論、これらの要素はマイケル・マン作品やマトリックスの影響下にある。それでも、従来野暮ったいジャンルだったゾンビ映画に、かっちょ良さを取り入れた。だからこそ1は楽しいんです。


③映画バイオ(3以降)
 では、何故そんなバイオがダメになっていったか。アンダーソン×ミラ夫婦が作品を私物化していったのも原因ですが、中途半端な原作目くばせにも一因があると思います。
 モンハン評でも言ったんですが、
https://magiclazy.diarynote.jp/202104210215374656/
この監督、無邪気な小ネタ入れたがるんですよ。「3」ではクリスを出してあっさり死なせ、「4」では超人ウェスカーの高速ダンスバトルを再現する。「5」ではレオンとエイダのパチモンを出して無駄死にもさせたり…。ゲームとは全く違うオリジナルストーリーな癖して、随所で「ほら、元ネタリスペクトだから!」とその実雑なパロディをブチ込む。この辺りが原作ファンをイラっとさせる映画でした。


④映画独自性
 その点で、スタイリッシュさに回帰するのではなく、ゲームファンへの目くばせに終始した本作は残念でなりません。一応、本作は「サバイバルホラーへの回帰」を打ち出しています。確かに、ホラー演出は強めの映画となってはいる。
 なら猶更、オマージュネタは要らなくねえすか?スペンサー邸のホール、警察署入り口をじっくり見せるカットは好きです。原作ファンは再現度にニヤッと出来るし、未プレイ層にもゴシックホラー的な雰囲気を味わせられる。でも、月光をつま弾いたら扉が開くとか、「かゆ うま」をゾンビが文字にするとか、エンドクレジットで超人ウェスカーとエイダを出すとか、そういうくすぐりは要らんでしょ!!
 おまけにラスボスはお決まりのロケラン退治なんですが、レオンは狭い空間に人間5人とG生物が同居する中で撃つんですよ。密閉性の高いコンテナで爆発が起きたら、全員内臓破裂で死ぬから!おまけに死体は塵一つ残らず、返り血や肉片がかかる描写も無い。ホラーの癖してこういう所手抜くのはさあ…ゾンビ映画としてダメでしょ?


⑤結びに
 ホラーとしてのバイオを楽しみたい?ならもう、ゲームで良いんですよ。ホラーバイオのルネサンスとなった「Resident Evil バイオ7」、リメイクとして評価の高い「バイオ:Re2」、最新作であり最も売れた「バイオ8 ヴィレッジ」。映像技術が進んだ今般、わざわざ映画である必要はもうない。





 以上、二本立て5千字評でした。バイオの方も、1・2ごった煮じゃなくてじっくりドラマ1本を見せてくれたなら評価してたかも。どうせホラーやるなら『バイオ7』か『アウトブレイク File1』でやれや。
ポストジブリ映画の新作(であり失敗作の)『鹿の王』を長々こき下ろす
 試写行きました。うーんこれはキツい…。


粗筋 覇権国家ツオル帝国と、自然豊かなアカファ王国。かつてツオル国はアカファ国に侵攻したが、謎の病・黒狼病(ミッツァル)の流行によって撤退した過去がある。以後ツオルはアカファを友好的に併合していたが、アカファ内で反乱が始まった。ウイルスを宿す山犬を用い、ツオル領内でミッツァルを流行らせ始めたのだ。
 ツオル随一の医者ホッサルは、皇帝の命で調査を開始。山犬に噛まれ生き延びた男ヴァンを知り、血清を作るべく後を追う。だがアカファの放った狩人サエもまた、ヴァンを付け狙っていた…。


①作品概要
 原作は本屋大賞を受賞した、上橋菜穂子の同名小説。著者が文化人類学者だけあって、非常民である狩猟民族の文化、風習が濃密に盛り込まれたファンタジー小説…って原作の説明はどうでも良いんだよ。この映画、前回書いた通りとにかくジブリ臭が途轍もないの!
https://magiclazy.diarynote.jp/202201312134285489/
 それもその筈、監督・キャラデザ・作監全てを仕切ってるのが安藤雅司。ジブリ時代は『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』を、フリーになった後は『君の名は。』のキャラデザ・作画監督を担い、幾多のメガヒットに貢献したレジェンド級アニメーターです。

 …ンだけど、この映画、クッソ詰まらなかったです。僕はその理由として、「黄金期ハヤオ映画のエンタメ性がなかったから」だと考えます。無論、今作に原作小説があるのは承知。その上で「ハヤオ映画的なるもの」の軸で今作を主に貶して語って行こうと思います。


②ポストジブリ
 黄金期ハヤオを「ナウシカ~千と千尋」とするなら、「ハウル・ポニョ」以降は混迷を始めた時期でしょう。その頃から、ポスト駿・ジブリと持てはやす(代理店が担ぎ出す)ムーヴメントが生まれたように思います。
 電通が『バケモノの子』を猛プッシュしていた時代の、細田守。『星を追うこども』の頃の、新海誠。ジブリ内で言えば、ゴローちゃんや『メアリと魔法の花』の米林監督(そういやスタジオポノックってどうなった?)。
 そして、今作『鹿の王』と安藤監督。今作の配給は日テレ。日テレと言えば~ジブリとズブズブですね!
 
 ですが、そのどれも「ジブリ路線」でその後成功したとは言えません。その中で出てきた今作もまた、露骨なジブリ後追い。「ああまた駄作だなあ…」と落胆したのですが、何故詰まらなくなるのか?それはガワだけジブリっぽさを真似て、ハヤオのエンタメ性を引き継いでいないからだと考えます。


③ハヤオのエンタメ性:キャラ相関
 ここから具体的な話をしていきましょう。唯一ジブリらしさを踏襲していたのが、キャラ相関の観点。

 ハヤオ映画には、大きく分けて4通りのキャラクターが登場します。
A)少女:世界の鍵を握る
B)少年:オタク気質/冒険好き。少女と交流し護る
C)悪役:野心があり、その成就のため鍵を握る少女を追う
D)大人の女:悪役の下で動きつつも、別の思惑を持って行動している
この4パターンですね。今作においては、少女=ユナ、少年=主人公のヴァン、悪役=アカファ王、大人の女=ホッサル/サエが該当します。

 追う・追われる、裏切って事態をかき乱すなど、物語の骨格はエンタメとして機能しています…が、端役までジブリっぽいのは苦笑しちゃいますね。ホッサルの従者マコウカンは烏帽子御前の側近ゴンザ、ヴァンが身を寄せる集落の男トマは牛飼いの甲六と、演出に至るまで酷似してますから。


④メカがない!
 ここからは酷評ポイント=ハヤオの良さがない点をあげつらっていきます。先ず第一に、メカがない!
 蒸気を噴き上げる内燃機関が、歯車や振り子がひしめくカラクリ内部が、多翼をしならせる高速小型艇が、雲を割きぬっと顔を出す飛空艇が、火花を飛ばしレールを疾走するトロッコが、地面をバウンドする戦車や車が、炎上し墜落する飛行船が、ブロック状に床が割れ崩落する巨城が、一切ねーんだよなー!本当に参るぜ!

 無論、アニメにメカやロボが不可欠なワケはない。男児ゴコロをくすぐるような、もう一度見たくなるようなシーンが必要なんですよ。これが本作『鹿の王』にはなかった。
 

抜きどころ見所がない
 興行的に成功する映画には、見所が必要です。少年漫画原作なら、ufotableやMAPPAのような超絶作画のバトルシーンが、キモオタ女児向けアニメならダンス・ライブシーンが、コナンなら赤井ファミリーが。

 では安藤監督なら?それはキャラデザと、動きによる感情表現だったんですよ(本来)。『君の名は。』では、従来の新海作品にはなかった表情のコミカルさ、ちょっとした仕草でラブコメを成立させメガヒットに導いた。マイナー作ですが『ももへの手紙』でも、妖怪3人と人間のアンバランスな遣り取りが、暖かいユーモアを生んでいた。
 それなのに、今作の登場人物は、みーんな眉根に皺を寄せて深刻面するばかり。原作が暗いトーンで話が淡々と進むらしいので仕方ないのかもしれませんが、キャラに声がついて動いていても誰一人愛着持てないんですよ。これは安藤監督作品として、致命的じゃねーかなー。


⑥上下構造と穢れ
 ハヤオ評論で定番の言説ですが、ジブリ映画には『上下構造』が存在すると言われます。カリオストロの「城」、ナウシカの「腐海と地底湖」、千と千尋の「油屋」…。少女=主人公は上へ上り、一度最下層へと堕ち、再浮上を果たす。
 映画の王道として、3幕構成と呼ばれるものがあります。第一幕で世界の設定/主人公の目的が示され、第二幕で障害と衝突し挫けそうになる。第三幕ではその解決が果たされ成長する…といった具合に。
 そうした定番の中で、ハヤオの独自性は何か、それは「穢れ」観念です。

 ジブリ作品の少女たちは第二幕で最下層に堕ち、穢れに触れます。カリオストロ城の地下迷宮のように具体的なものがあれば、魔女の宅急便や千と千尋のように、「お腹が痛くなる」=初潮を迎えるといったように赤不浄の場合もある。かくして、出だしでは純粋無垢だった彼女らは、穢れ=現実に触れることで価値観が揺さぶられる。
 その後の再浮上では、全てが復旧されるワケではない。キキがジジの声が聴けなくなったように、変化=成長を果たして世界と対峙するのです。


⑦『鹿の王』における穢れ
 黒狼病という、それっぽい設定は出てきます。でも、「物語の機能として」これは穢れではないんですよ。何故ならば物語の冒頭でヴァンもユナも罹患するため、二人の価値観は2時間を通して何ら変化しないのだから。

 とはいえ、4~5歳くらいの少女であるユナに性を匂わせる訳にもいかない。それならば今作が取るべきだったのは何か?それはヴァン・ユナの間での諍いでしょう。この映画、ツオルとアカファを巡る大きな物語はあるものの、(少なくとも映画上では)ヴァン・ユナの間に摩擦がない=小さな物語が存在してないんです。これはドラマとして、本当に詰まらない。


⑧ヴァン側からの摩擦
 辛い過去を持つ壮年男と、初心な子供/青年の旅…ロードムービーや、それより昔の西部劇の頃からある定番形式。そこで重要なのは、「オジンのツンデレ」です。この映画、徹頭徹尾ヴァンがデレてるんですよ。
 ハードな生き方をしてきたがゆえに、斜に構えるようになった渋ミドル。そんな彼が初心な若者と出会い、タフな生き方をその身を犠牲にして教えていく…。その出だしでは、現実を知らない若者に突慳貪な態度を取るものです。それでこそ、幾多の障害を経て絆を育む様に感動出来る。

 無論、原作から大きく変えろとは言わない。でも、歩み寄りを映像で表現することは出来た筈だ。『クレイマー、クレイマー』におけるフレンチトーストのように、何気ない動作の繰り返しを描くことで他人から父親に移行していく様を見せられた筈だ。浮き沈みがあってこそ、別離は耐え難いものとして映えるものなのに。


⑨ユナ側からの摩擦
 それでは、ユナ側が抱える穢れとは何か。それはヴァンが血の繋がらない父親と知ることでしょう。ヴァンは全てを了解してユナを養育している、けれどユナは本物の父親だと思って接しているわけです。それがアカファの追手から逃げる旅をするうち、ふとしたことで露見する。実母が死んだことも悟り、ヴァンを思わず拒絶してしまう…そこでアカファの親玉ケノイに攫われるという展開なら、大きな物語としての別離と小さな物語としての仲違いが重なり合う。

 その後、初めて自我に目覚めたユナがケノイとヴァンを天秤にかけ、それでもヴァンを選んでこそ、二人は真の意味で親娘になれるのでは。ヴァンが劇中「親子というものは、血縁が重要ではないのです」と語るように、ユナ側も「血が繋がっていなくとも、ヴァンは父さんなんだ」と思い直せばこそ成長できるのでは。

「原作がこうだから」。そりゃそーです。でも全4巻を通読する体験と、2時間弱の映画体験では想いに浸る密度が違うんですよ。だから映画にするなら、ドラマに起伏が必要。
 この映画内において、ユナに自発性は皆無じゃないですか?これ作劇上、人である必然性ないですよね?別に大切にしてる生き物であれば、犬でもバッタでも盆栽でも話成り立っちゃいますよね??


⑩ラスト:災害によるカタストロフ
 最後の項目になりますが、ハヤオ映画の最終盤といえば大災害です。上下構造を成していた建築物/土地が崩壊し、大きな流れが穢れを押し流す。瓦礫になった新しい世界で、穢れは薄く(けれども決して皆無ではなく)なった世界で、聖穢両方を抱えて生きていく。ナウシカの名言
「ちがう。いのちは闇の中のまたたく光だ!!」

ですね。

 一方の今作は、ヴァンが全て損を被って去っていくという「西部劇エンディング」…。なんですが、その演出が余りにも古臭い。犬の王となったヴァンを金色の光がバオーーーッと包み滑るようにぴゅーーっと平原を駆け抜けその光芒が遠い山並みに流星のようにたなびいて消えていく…。
 あのさあ!!!逆シャアとか、イデオン発動編の時代なら兎も角、あなた今2022年(公開予定は2021年)ですよ!!!冒頭の悪夢シーンといい、ファンタジー演出が昭和なんだよ!!単調な光がビガーーッ!!は止めれ!!


⑪結びに
 ポストジブリ…。そう評されるのは、何も国内に限った話ではありません。ジブリの影響下にあることを公言したスタジオで、「狼に噛まれて呪いが罹る」「自然と文明の対立軸」「少女が鍵を握る」「悪役に追われる」…こんな作品がごく最近ありましたね。カートゥーンサルーンの傑作、
https://magiclazy.diarynote.jp/202011200036414147/
『ウルフウォーカー』です。

 公開前の映画なので、そこまで酷いことは言いません。でも、『鹿の王』を劇場で観るくらいなら、演出も、テーマ性も、アニメーションの到達度も、ドラマも全て勝っている『ウルフウォーカー』観た方が、良いんじゃねえかな。



 



 はい、5千字評でした。何気に当ブログでジブリの話するの初めてだね。
『鹿の王』は2/4(金)より東宝系映画館で全国公開!皆も劇場へ急げ!



 
ジブリみが過ぎる。

 タタリ神っぽい紫の汚泥、それに触れて出来た腕のアザ、アザは怪力と痛みをもたらす、皆大好き飛空艇、逆手に持つ一尺三寸の短刀、身体を丸め短刀を構えての跳躍、トルメキア軍っぽい無国籍風の鎧+マント、シズル感溢れる液体と光の表現、帝国に対峙するまつろわぬ者、ヤックル(鹿)に乗り森や岩山を駆ける主人公、ジコ坊っぽい狂言回し、山犬の姫、妙齢の美人さん(男)と大柄な副官…。


 でも、これだけ要素詰めてもエンタメとして成り立ってねーんだ。ハヤオの仏像作って魂入れず。賭けても良い、絶対この映画コケるよ。
『こんにちは、わたしのお母さん』と、ノスタルジー映画について長々語る
粗筋 シャオリンは幼少の頃から母親リ・ホワンインに迷惑をかけ通し。喜んで貰おうと企んだ合格書偽造も失敗するが、母は「健康で幸せならそれで良い」と前向き。そんな矢先、母が交通事故で危篤になってしまう。 
 シャオリンは母の傍らで泣き疲れ眠り込む。目を覚ましたとき、彼女は81年にタイムスリップしていた。若い頃の母親に会ったシャオリンは、今度こそ親孝行するぞと固く誓い奮闘する…。


 世評が高すぎるように感じるので、否定意見多めで語って行きます。全ネタバレするのでご注意。


①作品概説
 中国の喜劇女優ジア・リンが監督・脚本・主演を務めたコメディ映画。昨年2月に封切られるや爆発的な人気を呼び、最終的に9億ドルを稼ぎ出しました。これはあの『ワンダーウーマン』を超え、女性監督作品として世界史上最も売れた映画となりました。因みに2021年の世界興収でも2位を記録しています。


②今作の長所:コメディ
 僕は今作、どちらかというと否定寄りなんですが、2点面白いと感じました。先ず1点目は、そのコメディセンス。
 監督のジア・リンは元々舞台畑の人でして、今作が長編映画デビュー作。それ以前はTVドラマ・番組で活躍し、国民的スターへと上り詰めたそうです。その中で演じた1本のコント『你好、李煥英』を膨らませて映画化したのが、今作という流れです。
 元々喜劇女優として有名なだけあって、コメディ場面がどれも秀逸。前半はベタなドタバタが多いですが、映画的な外連味を活かしたキメ→外しの連続、間(ま)を活かしたシュールギャグがあるかと思えば、共感性羞恥を誘うような赤面ギャグもある。ちょっとした仕草動作、テンポの良い会話の応酬もあり、ギャグの量・質共に素晴らしいです。


③時間SF的なひねり:破滅の選択
 本作には2点、ツイストが効いています。一つ目が、「自分が生まれなくなる未来を選ぼうとする」という話展開。
 時間SFは大体が、「現代に戻る/現代や未来で起きる惨事/不幸を回避するべく問題解決を図る」ストーリーとなっています。ところが本作はその逆を選ぶ。今作の紹介で「逆『バック・トゥー・ザ・フューチャー』だ」というフレーズを見ますが、僕はどちらかというと『バタフライエフェクト』の没EDを思い浮かべますね。
 「最愛の人の幸せを願うがゆえに、自分が生まれないよう胎児に帰って自殺する」…あれは悲愴な最後でしたが、今作はあっけらかんとしているのも異色です。何とか母親を金持ちとくっつけようと、コミカルに立ち回っては失敗を続ける。


④時間SF的なひねり:寸草春暉
 2点目としては、ラスト10分で明かされる衝撃の事実があります。なんと、母親もまたタイムスリップしていたのです。
 主人公以外もタイムスリップしていたことを明かす映画は、無数にある。「死とニアミスした人間が過去に戻り、人生の幸福と覚悟を噛み締めて死に臨む」映画で言えば、あのカルト映画『ドニ―・ダーコ』が似ています。でも、両者をミックスした映画はなかなか無いのでは?

 更に言うなら、そのひねりをSF的な快感ではなく親子愛の感動に持って行ったのもまた特異な点ですね。唐詩から派生した熟語で、「寸草春暉」という言葉があります。
誰言寸草心
報得三春暉

どれだけ孝心を尽くしても、親の恩愛には及ばないことを表した語です。今作でも、シャオリンは懸命に(彼女なりのやり方で)孝行に励んだ。(実は自分もタイムスリップしていた)ホワンインは全部を知ったうえで、敢えて真実を告げず見守っていた…。
 ラスト5分では、子供時代のシャオリンとそれを見守るホワンインの回想が入ります。タイムスリップする前・した後どちらの世界でも、シャオリンの見ていないところでの苦労が描かれている。無限の親心に、子供は気付けないものなのです。


⑤本作の問題点:伏線
よっしゃぁ!こっからクサすぞ!3点に大きく分けて論難していきます。

 先ず1点目。後出しじゃんけんで、伏線回収の快感がないところ。
 隠れた名作なんですけど、『バック・トゥー・ザ・フューチャー』(BTTF)って映画皆さん知ってますか?あの映画、伏線回収が本当に巧みなんですよ。冒頭の時計、新聞記事、時計台、銃撃のカメラアングル、看板、発明のモチベーション、破いた手紙…。現代→過去→変わった現代の異同を予期・説明する演出を事前に、それも映像的なギミックで描き切っている。そりゃ名作ですわな。

 一方の今作、上述した「もう一人のタイムトラベラー」ネタが後だしなんですよ。直接のネタばらしは、ジーンズへの継ぎ当てを見たところから。若い頃のホワンインは裁縫が下手で、シャオリンの服のカケハギすることで腕を上達させていった。だから80年代の彼女は、本来上手いワケがない…と真実を悟り走り出す。…んだけどさぁ、その過去設定が台詞でちょろっと出るだけで、映像的な伏線になってないの。
 例えば冒頭の「私は駄目な娘」と愚痴る場面で、母親の裁縫が上達する様をモンタージュにするとかできるワケじゃない。「何気ないシーンに2重の意味を込めて、後で伏線回収する」って画が足りてない。

 他にも、結局父親と結婚する伏線が一切ない。ラスト15分、いきなりポッと出で爽やかな青年が出てきて「オラ、ホワンインと結婚するから。よろしこ!」と挨拶してくる。こういう「元の鞘に収まる」展開ってさ、そこに至る過程が大事じゃない。例えばスリップ前の現代時勢で、「子供からの目線では嫌な癖や言動が、実は恋路の成就に繋がる秘訣だった」描写を入れるとかさ。或いは、七光り息子のデート作戦との合間合間でモブっぽい男を出しておいて、そっちの方で恋が実る…とかさ。
 とにかく父親の扱いが雑なんだよ!七光り息子の不器用だけど憎めない奮闘ぶりを見てると、感情移入してしまう。だから他の男とデート紛いの外出に付き合うホワンインが、却って不実な女に見えてくる危険性があると思うんですよ。(この見方がミソジニーなのかな?)


⑥問題点:問題解決
 もう一点は、物語の主軸が「問題解決」からどんどん離れていくところ。
 褒めポイントのところで、時間SFのキモは
「現代に戻る/現代や未来で起きる惨事/不幸を回避するべく問題解決を図る」
点にあると述べました。そこで鍵となるのが、「情報アド」「特殊技能」です。
 過去に飛ばされて戸惑うも、現代の知識を駆使し(半ば予言者のように)立ち回る。或いは現代では無駄/平凡スキルだった仕事/趣味を、飛ばされた先で有効活用する。異世界転生も、広い意味でこの変形と言えるでしょう。

 ところが本作、スリップ前の現代パートで伏線を張らないから、それを後々で活かすこともない。主人公は設定上は無能なのに、スリップ先で突然超絶的な根回し能力・演技力を発揮し始める。…いやお前、天才じゃん。
 
 おまけに、「生まれなくする」「現代に戻る」どちらの推進力もラストで放棄する。「母さん!か゛あ゛さ゛ん゛ん゛ん゛!゛!゛」と感動の押し売りで映画は幕を閉じるため、現代に戻ってからの答え合わせが無い。「え?現代帰れたの?」「現代で母親は事故回避出来るの?」といった疑問は解決されない。


⑦本作の「目的」
 でもね、これで正しいんですよ。何故ならジア・リン監督にとって、とても個人的な一作だから。
 先に経緯を述べたように、発端は1本のコントから。コントのテーマは、パンフ曰く「突然の母の死」。リ・ホワンイン/李煥英は役名のみならず、実際にリン監督の母の名だそうです。EDクレジットに映る「リ・ホワンイン」の写真と人生年表、そして「すべての母に捧ぐ」の献辞…。リン監督が若い頃亡くなってしまった、母親に向けた自伝映画なのです。
 だから、伏線回収がどうしたの、整合性がどうだの、時間SFジャンルがどうだの、そういうのは眼中にねえんですよ!僕はオタクだから気にしますけどね!


⑧最後の問題点(?):ノスタルジー映画における「反省」の系譜
 先ほど、問題は3つあると言いました。最後は「過去を礼賛するだけで良いのか?」って観点です。

 皆知ってるBTTF、その作り手ロバートゼメキス監督は、実はリベラル側から「保守寄りだ」と非難されているんですよ。例えばBTTF。マーティが”ジョニーBグッド”を弾くシーンは名シーンとして有名ですが、「黒人音楽を、白人が作ったと改変する描写は如何なものか」と非難された。
 或いは『フォレスト・ガンプ』。こちらはもっと露骨で、保守/リベラルの対比が行きすぎてるんですね。保守を体現するガンプは従軍し/実業で財を成し/国民的なスターになった。一方、恋人のジェニーは売春婦になり/平和派のヒッピーにDVされ/エイズでクタバる。ゼメキス監督自身、
ジェニーは「ドラッグ・セックス・ロックンロール」であり、ガンプは「古き良きアメリカ」を体現している
とさえ発言している。おまけに、多大な犠牲を払って成し遂げた公民権運動は完全に無視されている始末。

 そういや日本も…いつも64年?って映画ありましたよね。ヤクザ公害犯罪などが滅菌された、何とも綺麗な60年代でしたが。


⑨ノスタルジー映画における「反省」の系譜2
 そういう流れもあり近年の映画では、過去を描く際に「時代の暗部」もまた描く努力が見えます。
 韓国の『国際市場で会いましょう』は、まさに韓国版フォレストガンプと呼べる一作。しかしあちらでは、身を擦切らすように家族に尽くしてきた男がラストで号泣する。韓国社会の根幹たる儒教文化に対する悲涙は、本家ガンプのハッピーエンドでは対称的です。
 或いは現在公開中の映画では、エドガーライトの『ラストナイトインソーホー』。50年代イギリス、ポップカルチャーの最先端だったロンドンを(序盤は)ノスタルジックに描きながらも、その背後にある「女性搾取」を恐ろしく幻惑的に描き出している。

 翻って、今作はどうか。ないんです。ただただ、満点に美しい80年代中国。何で明るさ一色なのか?僕は80年代固有の事情があると思います。それを説明するために、現在中国で起きてるという現象を紹介します。


⑩80年代ブームと戦後史
 ネット情報で恐縮ですが、2021年の中国で、80年代ブームが起きているとのこと。そこで人気なのが、中国のドラマではなく日本のドラマというのが面白い話です(当時、視聴率が80%あったそうです)。
 では何故80年代に懐古するのか?僕は逆に考えます、それ以前の中国は懐かしむべき過去がないからです。

 中国は戦後、西側陣営との冷戦/国民党との第二次内戦に突入します。50年代に入るとソ連との対立が表面化、ソ連式生産理論に頼らぬために「大躍進」を始めたことで、地獄の飢餓が全土の農村部を直撃します。
 大躍進の失政に流石に批判が集まり、60年代に共産党内での派閥争いが激化。毛沢東は紅衛兵を先導し、今度は「文化大革命」を始めます。反対派の大粛清、知識人層の迫害を行い中国が培ってきた歴史との断絶が生まれます。結局、毛沢東の死後に共産党は経済開放路線にシフト。70年代後半、そして本作の舞台となる80年代に、漸く大衆は掛け値なしの幸せを実感できるようになった。
 
 だから僕は、意地悪な言い方ですが中国はノスタルジーを覚えられるほど毛沢東死後の歴史が伸びたと思うのです。だからこそ、共産党への阿りなしに賞賛出来る過去=80年代を懐古する作品が、受けだしたのではないか…と。


⑪結びに
 今作は昨年の世界興収第2位と前述しました。1位もまた中国映画の『長津湖』。この映画、朝鮮戦争中の「長津湖の戦い」が題材なんですが、実際の戦争は悲惨そのものだったらしいです。極寒の地で米中が交戦し、装備の違いで中国側に大量の凍死者が出た。けれど映画では英雄的行為として描いている。国策映画なんですね。

 そんなお国柄映画が世界興収ワンツーフィニッシュなのを思うと、中国市場の巨大さを思うと共にハリウッドの凋落を感じますね。






 久しぶりに5千字。まー嫌いな方向の映画です。
リーアム・ニーソン新作『マークスマン』をそこそこ褒める
 新春一発目の評からB級映画で。

粗筋 妻を亡くし牧場も奪われゆく老人、ジムはある日密入国者の親子に出逢う。後を追う麻薬カルテルとの銃撃戦となり、撃たれた母は息子ミゲルをシカゴに連れて行ってくれとの言葉を遺す。ジムとミゲル、二人は反発し合いながらも、追討から逃れる内に絆が芽生えていく…。



①『中年オヤジの逆襲アクションもの』
 一般(に見える)中年オヤジが、何故か超絶能力を発揮して巨悪を滅ぼす…。そんなB級アクションが、すっかり定番になりました。近年の大ヒットでは『ジョンウィック』や『イコライザー』などのシリーズがあります。

 中年オヤジの逆襲…似たような作品は、昔からありました。ただのコックが軍艦ジャック犯を抹殺する『沈黙の戦艦』や、ただの火災犯罪捜査官がコロンビアカルテルを撲滅する『コラテラルダメージ』などです。ただ…あれらの作品は、筋肉アクション止まりでした。シュワルツェネッガー・セガールのような強面筋肉達磨に、喧嘩を吹っ掛ける方が愚かというもの。そこに出てきたのが、あの『96時間』シリーズです。


②俳優リーアム・ニーソン
 リュックベッソン監督、リーアム・ニーソン主演の『96時間』。何が革命的だったかと言えば、主人公の佇まいでした。評論家の宇多丸いわく「子犬のような困り顔で、く~んとショボくれる」絶妙な顔つき。そんなどこにでもいるようなオッサンなのに、いざ非常事態となるや野菜を刻むような手際で悪党をブチ殺し出す。そのギャップ・若干のサイコパスっぽさが、作品の魅力となったのです。
 ジャンルを開拓したニーソンは以後、似たような映画に出ずっぱりになります。『ミッドナイトラン』『スノーロワイヤル』『ファイナルプラン』などなど…。


③『マークスマン』の印象
 そういうことで、今作にも『中年オヤジの逆襲アクション』ものを期待します。配給側も
的中率100%の男。狙う!撃つ!仕留める!

なんて惹句を付けてますしね。
 ところが本作…そういう雰囲気ではなかった。アクションは序盤とラストの僅か2点だけ、銃で倒すのも合計たった5人。その代わりに展開されるのは、老人と少年のロードムービー。期待したものとは違う、けれど見所はキチンとある映画でした。以下、今作の特長を述べていきます。


④視覚的説明
 ゴミ邦画や漫画アニメの評で散々言いましたが、映画における説明は直接台詞ではなく、映像的に提示すべきです。今作においては、腕の入れ墨、内通者との符牒、ジム&ミゲルの感情の変化などが台詞なきままに表現されます。
 情報量が多くなり幅が出る、その場の描写はあっさりだが余韻が残る、複数の意味を盛り込める…映像的な表現には様々な機能があります。ですが今作特有の機能としては、緊張感の持続でしょうか。車のナンバー、零れ落ちた地図、犬の散歩…ジムも慎重な男ではあるが、僅かづつ痕跡が残る。それを追討班のリーダー、マウリシオは拾い集め包囲網を狭めていく。緊張感を持続させる伏線が数珠繋ぎのように続いている御蔭で、全編に亘りヒリつくような空気がみなぎっているのです。


⑤カルテル描写
バカ右翼スタローンの作った『ランボー:ラストブラッド』と違い、
https://magiclazy.diarynote.jp/202007152247379167/
 カルテル描写が現実的ですね!
 米墨国境を越境する際は決して武器を携行せず、現地で装備人員機器をかき集める。車の登録、クレカ情報からどこを通過したのかを追跡する。国境警備兵、末端の警官など現地の協力部隊を使って、効率よく追い詰める…。
 しかも上記の映像的伏線が効いているから、ご都合主義にならない。クレカ履歴のハッキングは家探しシーンが、汚職警官に呼び止められるのはナンバープレートを見られるシーンが事前に描かれているので、リアリティレベルが下がることがない。


⑥ガキとの共闘
 壮年の男と子供のロードムービーと言えば、ガキはお荷物になるもの。ところが本作では、そこそこ活躍します。発砲による陽動、弾倉のイジェクトなど、中盤の訓練シーンが後半のアクションで機能する。しかも、ガキの成長物語を描くことが、ストーリー上でもう一つ機能を持っているのが憎らしかった。


⑦悪党、マウリシオ
 スタローンはバカ右翼なので、マフィアを浅薄な悪党に描きました。一方の今作は、彼を「ミゲルのダークサイド」として描いたのです。ハリウッド映画において、悪役を「主人公のダークサイド」とするのは定番ですが、サイドキック側の反面教師にしたのは斬新ですね。
 マウリシオは確かに、血も涙もない殺し屋です。と同時に、女性を眺める目線、勲章を大事そうにしまう仕草などで、どこか少年らしさも残されている。彼は最期、「こいつ(ミゲル)は俺と同じだ。(カルテルに入る)選択肢以外なかったんだ」とジムに語り掛けます。救済はされないけれど、悪党マウリシオの死に、一片の哀しさも湛えている。
 
 最悪な環境に居る人間でも、広い意味での「教育」によって悪事以外を選ぶことが出来る。このテーマ性は累犯社会・分断社会となった現代アメリカで有意義なメッセージでしょう。有色人種取り合えず皆殺しにするスタローンよりは遥かに。


⑧『マークスマン』のジャンル
 この映画は、ロバート・ロレンツ監督がインタビューで語るように『西部劇』です。辛い過去があり斜に構えた中年男が、初心な青年/少年に現実的でタフな生き方を教える。青年は窮地を脱し人生に意義を見出すが、その幸せの輪に中年男は入らず、独り去っていく…。致命傷を負った男が、死に様を見せずに立ち去るラストは、もろ『シェーン』『ワイルド・アパッチ』に酷似してますね。


⑨結びに
 ロバート・ロレンツ監督は、巨匠イーストウッド組出身の作家。そのイーストウッドの新作(そして現代西部劇でもある)『クライ・マッチョ』が来週末公開。この機会に、二人の作品を劇場で見比べてみるのはどうでしょうか?まあ…『クライマッチョ』の本国評価クッソ低いんだけどな!脚本酷いんだって!



 2500字評でした。坂のバンクを活かし「こちらからだけ見える狙撃ポイント」を見極める下りが現実的でカッコよかった。スコップを銃架に見立て、必殺の呼吸から狙撃開始するシーンも超良い。
 結構劇場で観た。

ベスト10

・ドントブリーズ2
 強力接着剤、電気ケーブル、檻、犬ちゃん、麻薬組織…一度出したアイテムを、後のシーンで別の機能で活用するアクション的手際が見事。
 それに前作で印象最悪だった「狂人」を贖罪させる塩梅も良いね。それなりに応援出来るが、手放しで褒められない人物。だからこそ、自己犠牲が尊いものとなる。

・オールド
https://magiclazy.diarynote.jp/202109091946084779/
 粗もいっぱいある映画(僕は本来そういうの突っ込むタイプ)なんだけど、どうしようもなく惹きつけられてしまう。インパクト!って映画好きなんだ。

・空白
https://magiclazy.diarynote.jp/202109290211569226/
 人物描写とストーリー展開が巧み。善性ではなく行動力と共感性のある人間の方が報われるという捌き分けも素晴らしい。

・アナザーラウンド
「中年の人生再帰映画」って、普通は何だかんだ丸く収まるジャンルなんですよ。ところが今作、決定的な後悔を一つ抱えてしまう。「人生は何時からでもやり直せる」とだけ提示するのではなく、「何時でも間違いを犯してしまう」さまも見せる。
 ゆえに、ラストの"what a life"の祝祭シーンにも言いようのない哀感と充実が生まれる。真摯な人生賛歌映画でした。

・アンテベラム
 社会性とエンタメ性の両立が見事。特筆すべきは、脱出ロジックだね。差別主義者は南北戦争時代の暮らしを旧套墨守して、現代テクノロジーを受け入れない(=センサー、照明、フェンス、厳重な戸締りがない)から、主人公は逃げられる。ジャンル映画的な粗が解消されると共に、「偏狭な保守派の頑迷さ」への批評にもなっている。グッド。

・JOINT
 とんでもないインディーズ映画。
「演技力よりルックを重視」したキャスティングだけあって、確かに演技に難は少々ある。けれど、その素人臭さがドキュメンタリックな作風にマッチしている。おまけに、朴訥な人間が見せるくぐもった笑い方、仕事合間のじゃれ合いなど、旧来のVシネ・ヤクザ映画にはないフレッシュさもある。
 大作ゴミ邦画の特徴と言えば「キャスティングに予算の大半を使って、内容ボロボロ」。今作はその対極にある。オレオレ詐欺/名簿ビジネスなどこれまで散々こすられてきた特殊詐欺題材も、きっちりリサーチされ現代版にリシェイプされている。ライティング/シェーディングなど撮影もインディーズとは思えないほどしっかりしているため、画面に安っぽさがない。
 これを20代で撮るっつーのはスゲーね。央大監督は間違いなく躍進していくと思う。

・レイジングファイア
 アクションの豊富さが見事。ドニー・イェン兄貴と言えばカンフーアクションだが、今作のアクションは実に多彩。床板1枚挟んだ高低差アクション、車とバイクで並走しながらの「近接格闘」(!?)、FPS視点や回り込むカメラアングルでの銃撃など、観ていて飽きない。
 それで居て、ラスト15分では「HEAT」そっくりの市街地集団銃撃戦、「SPL 狼たちよ静かに死ね」と同じ特殊警棒VSナイフの殺陣など、名作たちへのオマージュも忘れない(「SPL」も今作もアクション監督は谷垣氏ゆえ似ているのは当然だが)。
 
 汚職・圧力社会そのものは有耶無耶で終わってるのはすっきりしないが、観ている間はとにかく気持ちいい一作。


ベスト3
・燃えよ剣
 原田眞人監督の演出は素晴らしいね!クソ邦画と違って台詞で説明せず、キャラクターの描き分けや心情表現を映像に託してくれる。所作・小道具・ロケ・セットどれも見事。
 それに、ユーモア溢れる脚本も見事。「るろ剣最終章 the beginning」とか、藤沢周平時代劇とか、とにかくメソメソしてて鈍重なんですよ。対する今作、基本はシリアスながら随所で和やかな掛け合い、愛くるしいじゃれ合いがあって一向に飽きない。流石にシネフィルを自称する監督だけある。

・最後の決闘裁判
 誇り高い武人・野心に燃える伊達男、互いに譲れない決闘………その裏で搾取される女性の惨さ。僕はおポリティカルおコレクト映画が大嫌いなんですよ。最初から男/白人/異性愛者が無能な悪人に指定されていて、女/黒人/ゲイが有能な人権派になっているから。その点今作は、1章2章でマジョリティー側の尤もな理屈が提示されているからこそ、3章で真実が明かされた時に大きな衝撃がある。(それに、見直した時にやっぱり男たちのパートにも感情移入してしまう魔力がある)。

 それでいて、「世界には抗えぬシステムがあって、運命に人間は翻弄されるだけ」というリドリースコット作品に一貫するテーマがきっちり描かれている。主人公は命を賭けた決闘裁判を抜け、漸く自由を手に入れた。…その筈なのに、「決闘の勝者=男を立てた伴侶」の役割をすぐさま押し付けられ、絶望を通り越した諦めに沈んでいく…。ラストで我が子を見つめる、あの茫洋とした視線が忘れられない。


・マリグナント
 大!大!大好きな映画!今年ベスト1!
 ジェームズワン作品(=ゴーストハウスホラー)という先入観を見事に逆手に取ったドンデン返し!そこから展開される、クローネンバーグ的な人体変形シーン!更に畳みかける、高低差を活かし弧を描くような奇怪な虐殺&大乱闘(たっぷり2場面で!)!
 上記2作のような、上品で社会性に満ちた映画ではない。それでも映画を観る喜びに満ちた作品なんですよ!残虐シーンをきっちりR18+で描いてくれたワン監督に、ただただ敬服と感謝しかない。


 

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