『(ぼぎわんが、)来る。』が今年最後のワースト級映画
2018年12月16日
①粗筋
結婚、出産、育児と幸せの田原一家。だが家長の秀樹には懸念があった。故郷に伝わる言い伝え「ぼぎわんが連れて行く」の通り、周りでは怪異が起き始める。友人の民俗学者津田の紹介で、秀樹は比嘉真琴なる霊能者に引き合わされるのだが…。
②澤村伊智作品の特徴
原作「ぼぎわんが、来る」の著者、沢村先生は大変なホラーオタクだ。いや、創作に昇華しているのだから勉強家だ。「ずうのめ人形」「恐怖小説 シリカ」で名作へのオマージュを捧げたり、随所でホラーネタを詰め込んだり。しばしば小うるさいホラーオタを登場させ、他者の視点から「オタクってキモいなー」と白眼視させるのは、自嘲か読者への牽制か。
あ、このホラーキモオタの目線で論じるのでそこは宜しく。
では「ぼぎわんが、来る」の面白さとは何か。「信頼できない語り手」と「勝ち確キャラ」の2点だ。
③信頼できない語り手とホラー
小説ぼぎわんは3章構成となっている。各章毎に話者は異なる。1章は田原秀樹がぼぎわんに食い殺されるまでの話だが、視点が一定で進むからこそ、2章で妻の田原香奈の視点になって初めて愕然となる。夫の秀樹は、彼が語っているような善人ではなかった。
ホラーの文脈でこれをどう捉えるか。メタホラー映画の「キャビン」、或いはセス・グレアムのタイトルずばりの評論集「ホラー映画で殺されない方法」を見れば分かる。クズは死ぬんだよ!死亡フラグだ!
秀樹の語りで進む1章は「何で家族想いのパパがこんな目に…」と共に怖がりながら読み進み、2章に移ることで「死んで当然か…」と納得する。今度は香奈の視点で彼女に同調し、3章で真琴の恋人野崎の視点に移ることで香奈の本性が客観視される。そういう楽しみ方の出来る小説なのだ。
④映画における信頼できない語り手
映画ぼぎわんはこれが上手くない。小説では秀樹は死の瞬間まで自分のクズさに無自覚だった。ところが映画では親戚・友人・同僚の口から早々に見栄っ張りのクズであることが明らかにされるのでフラグが立つ。そして当然のごと死ぬ。
映画は小説のような語り口を持てない。だがやりようはある。一つはキューブリックやタランティーノのような時間軸シャッフルだろう。別の視点から同じ場面を2度映し、別印象を与えるのは映像ならではの手法だ。秀樹視点では妻を労わって電話をかけるイクメンなのに、香奈視点では自分の都合を押し付ける亭主関白。そういう場面のリフレインが全く足りていない。
もう一つは徐々に別の面を滲ませる演出だ。ジョエル・エドガートンのデビュー作「ザ・ギフト」の構造も似ている。サイコに脅かされる主人公が、実は相手以上のサイコだった。被害者加害者の関係が徐々に逆転し、主人公に同調し怯えていた観客もやがては犯人を応援する気持ちになっていく。あるいは「劇場版新耳袋 幽霊マンション」も、主人公の父親のクズっぷりが伏線回収され「幽霊グッジョブ」と言いたくなる。そういう演出の積み重ねもない。
⑤一転攻勢
ホラーにおいて逆転はいつの時代もカタルシスだ。今まで追われる、殺られる側だった主人公たちが、勝ちの目をみつける。ガレージ・武器庫に入る、音や光に反応する法則を逆手に取る、ワクチンや悪魔の真名を手にする…。ショットガンのポンプを押し込み、BGMが高らかに鳴り響く。
ストーリーで逆転するものもあれば、キャラで逆転するものもある。バトル漫画では覚醒、なろう系では異世界チート転生主人公の登場があるが、小説ぼぎわんの琴子もその手のキャラだ。
⑥比嘉琴子の「勝ち確」感
ギャグじみた造形だからこそ、勝ち確感が出る。警察相手に顔が効くのは映画も同じだが、小説では自分の名前を告げただけでぼぎわん以外の霊が怯えて退散する展開がある。
オカルト作品では、他の霊能者と大差をつけることで別格に見せる手法があるが、今作には真琴には出来ないことを琴子が易々とするシーンが一度もない。原作にあった「ぼぎわん=水子伝承を突き止める」お祓いロジックもないため、ラストバトルに爽快感が生じない。
何よりさ、ぼぎわん完全調伏するシーンは必要だろ!「仕事は終わりだ。お前は消す」の啖呵削ってどうすんの!除霊の結果見せずにクソガキの電波ソングで暗転ってどういう神経なのさ!
⑦結びに
評論家の高橋ヨシキ氏は監督の「告白」評でこう語っていた。かつてのエクストリーム表現には表現するための必然性があった。なのに「告白」は見た目の派手さだけで、何となくの残酷表現をしている、と。
それを今作の「来る」で再確認した思いだ。ホラーっぽい映像を集積したところで、これは物語として機能していない。
結婚、出産、育児と幸せの田原一家。だが家長の秀樹には懸念があった。故郷に伝わる言い伝え「ぼぎわんが連れて行く」の通り、周りでは怪異が起き始める。友人の民俗学者津田の紹介で、秀樹は比嘉真琴なる霊能者に引き合わされるのだが…。
②澤村伊智作品の特徴
原作「ぼぎわんが、来る」の著者、沢村先生は大変なホラーオタクだ。いや、創作に昇華しているのだから勉強家だ。「ずうのめ人形」「恐怖小説 シリカ」で名作へのオマージュを捧げたり、随所でホラーネタを詰め込んだり。しばしば小うるさいホラーオタを登場させ、他者の視点から「オタクってキモいなー」と白眼視させるのは、自嘲か読者への牽制か。
あ、このホラーキモオタの目線で論じるのでそこは宜しく。
では「ぼぎわんが、来る」の面白さとは何か。「信頼できない語り手」と「勝ち確キャラ」の2点だ。
③信頼できない語り手とホラー
小説ぼぎわんは3章構成となっている。各章毎に話者は異なる。1章は田原秀樹がぼぎわんに食い殺されるまでの話だが、視点が一定で進むからこそ、2章で妻の田原香奈の視点になって初めて愕然となる。夫の秀樹は、彼が語っているような善人ではなかった。
ホラーの文脈でこれをどう捉えるか。メタホラー映画の「キャビン」、或いはセス・グレアムのタイトルずばりの評論集「ホラー映画で殺されない方法」を見れば分かる。クズは死ぬんだよ!死亡フラグだ!
秀樹の語りで進む1章は「何で家族想いのパパがこんな目に…」と共に怖がりながら読み進み、2章に移ることで「死んで当然か…」と納得する。今度は香奈の視点で彼女に同調し、3章で真琴の恋人野崎の視点に移ることで香奈の本性が客観視される。そういう楽しみ方の出来る小説なのだ。
④映画における信頼できない語り手
映画ぼぎわんはこれが上手くない。小説では秀樹は死の瞬間まで自分のクズさに無自覚だった。ところが映画では親戚・友人・同僚の口から早々に見栄っ張りのクズであることが明らかにされるのでフラグが立つ。そして当然のごと死ぬ。
映画は小説のような語り口を持てない。だがやりようはある。一つはキューブリックやタランティーノのような時間軸シャッフルだろう。別の視点から同じ場面を2度映し、別印象を与えるのは映像ならではの手法だ。秀樹視点では妻を労わって電話をかけるイクメンなのに、香奈視点では自分の都合を押し付ける亭主関白。そういう場面のリフレインが全く足りていない。
もう一つは徐々に別の面を滲ませる演出だ。ジョエル・エドガートンのデビュー作「ザ・ギフト」の構造も似ている。サイコに脅かされる主人公が、実は相手以上のサイコだった。被害者加害者の関係が徐々に逆転し、主人公に同調し怯えていた観客もやがては犯人を応援する気持ちになっていく。あるいは「劇場版新耳袋 幽霊マンション」も、主人公の父親のクズっぷりが伏線回収され「幽霊グッジョブ」と言いたくなる。そういう演出の積み重ねもない。
⑤一転攻勢
ホラーにおいて逆転はいつの時代もカタルシスだ。今まで追われる、殺られる側だった主人公たちが、勝ちの目をみつける。ガレージ・武器庫に入る、音や光に反応する法則を逆手に取る、ワクチンや悪魔の真名を手にする…。ショットガンのポンプを押し込み、BGMが高らかに鳴り響く。
ストーリーで逆転するものもあれば、キャラで逆転するものもある。バトル漫画では覚醒、なろう系では異世界チート転生主人公の登場があるが、小説ぼぎわんの琴子もその手のキャラだ。
⑥比嘉琴子の「勝ち確」感
ギャグじみた造形だからこそ、勝ち確感が出る。警察相手に顔が効くのは映画も同じだが、小説では自分の名前を告げただけでぼぎわん以外の霊が怯えて退散する展開がある。
オカルト作品では、他の霊能者と大差をつけることで別格に見せる手法があるが、今作には真琴には出来ないことを琴子が易々とするシーンが一度もない。原作にあった「ぼぎわん=水子伝承を突き止める」お祓いロジックもないため、ラストバトルに爽快感が生じない。
何よりさ、ぼぎわん完全調伏するシーンは必要だろ!「仕事は終わりだ。お前は消す」の啖呵削ってどうすんの!除霊の結果見せずにクソガキの電波ソングで暗転ってどういう神経なのさ!
⑦結びに
評論家の高橋ヨシキ氏は監督の「告白」評でこう語っていた。かつてのエクストリーム表現には表現するための必然性があった。なのに「告白」は見た目の派手さだけで、何となくの残酷表現をしている、と。
それを今作の「来る」で再確認した思いだ。ホラーっぽい映像を集積したところで、これは物語として機能していない。
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