「パディントン」「パディントン2」という映画を観て心底吐き気を覚えた。
 
人語を解す田舎育ちの熊がロンドンを訪れ、人の一家と絆を築いていく…という絵本原作の映画。概ね好評を受けたが、批判もあった。多くは絵本原作なだけに設定がふんわりしており、「パディントンのリアリティーラインが場面場面で浮き沈みしていて脈絡が繋がらない」という指摘。ただここで挙げたいのは、この映画には贖罪=成長がないところ。

 子供向け映画にも、いや子供向け映画だからこそ成長は必要だ。善意や軽はずみでした行為が人を深く傷つけ、事態や心情の回復を懸命に図ることで和解し、人間的に成長を遂げる。ディズニーアニメの基本骨格はこれが多い。ところがパディントンが他人の神経を逆なでする言行に出ても、観客は非難のしようがない。何故なら彼は「動物」「田舎育ち」と2重の免罪符を与えられており、それでいてパディントンの起こす騒動の大半がイナカッペ特有の知識ギャップによるものだからだ。
 純粋な者は、弱者は無条件で尊重されるべき。そういう考え方は嫌いだ。映画体験それ自体が「無知の壁」を破る行為であり、外部のより大きな世界を知った登場人物=観客は知識・経験の差を埋める努力をすべきだからだ。センシティブな人種差別を扱った映画であっても、近年では「ドリーム」や現在公開中の「ブラッKKKランズマン」のように「開明な白人も居れば、狭量な黒人も居る」というバランスで作られている。
 それがないとどうなるか。ただ独善的な映画になる。昨年公開され大いに批判を生んだ「ピーターラビット」はどうだったか。動物たちは収穫物を盗みに行った同胞を狩り出す住民の殺害計画を立てる。自然に理解があり「原作者の投影たる」絵描きは「自然は動物のものだから」と農家を批判する。だが観客は手放しでピーターを応援できない。何故なら田園思想や絵本シリーズも含めた社会の根幹は、商業によって支えられていることを知っているから。
 一方去年の傑作映画「フロリダプロジェクト」はどう違うか。子供目線の瑞々しい世界と、ホワイトトラッシュの極貧生活を皮膜1枚で描いていた。母娘睦まじい日々の向こう側、詐欺と売春と児童相談所が見え隠れするからこそ、ラストに運命付けられた破滅には涙が止まらない。

 結局のところ、パディントンは「すみません」が口癖なのに、腹の底からの悔恨はない。純粋無垢な煽りで敵の憎しみを増加させ、一家を巻き込んだ割に最後は「一家側が彼を誤解していた」体で和解に落ち着く。紳士なクマさんは汚れを知らないからこそ、何も成長しない。

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