『 アメリカン・アニマルズ』
2019年5月20日 Magic: The Gathering
粗筋:ケンタッキー州の大学生、スペンサーは飢えていた。アーティストになるべくトランシルヴァニア大に入ったのに、自分には個性がない。漠然と不満はあるのに、方向を見つけられない…人生の転機に渇えていた彼は、ケンタッキー大に行った悪友ウォルターに感化される。図書館見学で大学所蔵の稀覯本「アメリカの鳥類」を見た彼は、ウォルターの友人たちを引き込み時価1200万ドルの稀覯本強奪計画を立て始める…。実在の事件を基に制作されたクライムサスペンス。
多層的重層的な楽しみ方を出来る傑作。
今作は2パートから成る。主となるのは役者の演じる劇映画パートだが、たびたび出所した本人らのインタビューパートが挟まる。勿論劇映画パートのみでも楽しいのだが、インタビューパートがあるからこそメッセージ性が高まったのは確かだ。
劇映画パートを一言で表すなら、「若者の無軌道さの輝き」。世間が狭いから、思い込んだら止まらない。愚かな度胸だけはあるが、知識も経験もないため計画にはそこここにボロが出る。観る側をハラハラさせると共に運命づけられた破滅を予感させる。だが手探りで物事を進め、事態を大きく確かにしていく彼らは一様に顔を輝かせている。
映画ネタが随所に散りばめられているのも楽しい。指南書のない強盗稼業、彼らが教科書にしたのは映画だ。計画を練るべく眺めるのは「オーシャンと11人の仲間」。「レザボアドックㇲ」宜しくコードネームで互いを呼び合い、優雅な足運びで完璧な強奪を行う姿を妄想する(BGMのa little less conversationは「オーシャンズ11」だが、カメラワークはガイリッチーの「スナッチ」を思わせる)。
選択を迫る時の台詞「赤いピルか、青いピルか」は事件当時のゼロ年代前半、反体制のバイブルだった「マトリックス」だ。見張り役兼計画推敲に秀才のボーサク、ドライバー役兼資金調達に学生起業家チャズを引き入れる下りも、ケイパー映画を思わせるチーム感があって嬉しい。
だが反抗(犯行)は失敗する。職員通路を確認してない、売買ルートの手筈を整えていない、架空人物での申請の際に本物の個人情報を漏らすなど、計画の脆さとアドリブの利かなさから墓穴を掘った4人にはFBIの手が回り、7年の求刑を受ける。インタビューパートが効いてくるのはここからだ。若者の反抗はニューシネマ以降、(フィクションとしてではあれ)肯定的に映画では捉えられる。前半の劇映画パートもまさにそう受け取れるのだが、犯行当日を語る彼らの顔は暗い。「自分を変えたくて、特別な人間だと信じたかった」だけだと自らの口で糾弾する。
本人へのインタビュー演出には3つの意味がある。1つは上記の通り犯罪の愚かさを当人の口から語らせ、英雄化を阻むこと。もう一つは各人の証言を別撮りして敢えて相互に矛盾させることで、「真実」を浮かび上がらせないことだ。暴力を受けた被害者の居る刑事事件ゆえ英雄には出来ない、だが刑期を終え罪を償った人間を否定的に扱うのもまた間違っている。「アイ、トーニャ」でも「食い違う証言映像」の手法は使われたが、今作は僅か10年前に起こった事件ゆえ本人らの扱いにも注意が要るからだろう、誰が主犯で最後の一線を越えさせたのかを曖昧にしている。
そして3つ目。彼らが「この映画に関わった」と見せることに意味があるのだ。強盗団によって拘束された司書JB本人はこう語る。「他者に働きかけるのが人生だが、傷つけるのは幼稚」だと。4人は出所後、作家、スポーツインストラクター、画家など「事件を経験したうえで」の人生を歩みだした。そしてこの映画を通じ、「傷つけるのではない他者への感化」をその身で証明した。
刑務所/penitentiaryはpenitent(悔い改める)ための装置である筈だ。劣悪な監獄環境で再犯社会となったアメリカや、犯罪者のレッテルで生き地獄を強いる日本へ、今作は問いを投げかける。昨年の「友罪」も邦画としては面白かったけど、「映画」だからこそフィクションの壁を越えられるという意味ではやっぱ「アメリカンアニマルズ」段違いにスゲーよ、これは。
多層的重層的な楽しみ方を出来る傑作。
今作は2パートから成る。主となるのは役者の演じる劇映画パートだが、たびたび出所した本人らのインタビューパートが挟まる。勿論劇映画パートのみでも楽しいのだが、インタビューパートがあるからこそメッセージ性が高まったのは確かだ。
劇映画パートを一言で表すなら、「若者の無軌道さの輝き」。世間が狭いから、思い込んだら止まらない。愚かな度胸だけはあるが、知識も経験もないため計画にはそこここにボロが出る。観る側をハラハラさせると共に運命づけられた破滅を予感させる。だが手探りで物事を進め、事態を大きく確かにしていく彼らは一様に顔を輝かせている。
映画ネタが随所に散りばめられているのも楽しい。指南書のない強盗稼業、彼らが教科書にしたのは映画だ。計画を練るべく眺めるのは「オーシャンと11人の仲間」。「レザボアドックㇲ」宜しくコードネームで互いを呼び合い、優雅な足運びで完璧な強奪を行う姿を妄想する(BGMのa little less conversationは「オーシャンズ11」だが、カメラワークはガイリッチーの「スナッチ」を思わせる)。
選択を迫る時の台詞「赤いピルか、青いピルか」は事件当時のゼロ年代前半、反体制のバイブルだった「マトリックス」だ。見張り役兼計画推敲に秀才のボーサク、ドライバー役兼資金調達に学生起業家チャズを引き入れる下りも、ケイパー映画を思わせるチーム感があって嬉しい。
だが反抗(犯行)は失敗する。職員通路を確認してない、売買ルートの手筈を整えていない、架空人物での申請の際に本物の個人情報を漏らすなど、計画の脆さとアドリブの利かなさから墓穴を掘った4人にはFBIの手が回り、7年の求刑を受ける。インタビューパートが効いてくるのはここからだ。若者の反抗はニューシネマ以降、(フィクションとしてではあれ)肯定的に映画では捉えられる。前半の劇映画パートもまさにそう受け取れるのだが、犯行当日を語る彼らの顔は暗い。「自分を変えたくて、特別な人間だと信じたかった」だけだと自らの口で糾弾する。
本人へのインタビュー演出には3つの意味がある。1つは上記の通り犯罪の愚かさを当人の口から語らせ、英雄化を阻むこと。もう一つは各人の証言を別撮りして敢えて相互に矛盾させることで、「真実」を浮かび上がらせないことだ。暴力を受けた被害者の居る刑事事件ゆえ英雄には出来ない、だが刑期を終え罪を償った人間を否定的に扱うのもまた間違っている。「アイ、トーニャ」でも「食い違う証言映像」の手法は使われたが、今作は僅か10年前に起こった事件ゆえ本人らの扱いにも注意が要るからだろう、誰が主犯で最後の一線を越えさせたのかを曖昧にしている。
そして3つ目。彼らが「この映画に関わった」と見せることに意味があるのだ。強盗団によって拘束された司書JB本人はこう語る。「他者に働きかけるのが人生だが、傷つけるのは幼稚」だと。4人は出所後、作家、スポーツインストラクター、画家など「事件を経験したうえで」の人生を歩みだした。そしてこの映画を通じ、「傷つけるのではない他者への感化」をその身で証明した。
刑務所/penitentiaryはpenitent(悔い改める)ための装置である筈だ。劣悪な監獄環境で再犯社会となったアメリカや、犯罪者のレッテルで生き地獄を強いる日本へ、今作は問いを投げかける。昨年の「友罪」も邦画としては面白かったけど、「映画」だからこそフィクションの壁を越えられるという意味ではやっぱ「アメリカンアニマルズ」段違いにスゲーよ、これは。
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