クソ詰まらなくも優しい映画、『2分の1の魔法』について大いに語る
2020年8月26日 映画
粗筋 エルフ、ユニコーン、小人などの、ファンタジー生物が居ながらも魔法だけが失われた世界。郊外に住むエルフの少年イアンとその兄バーリーは、イアンの16歳の誕生日に母から父の形見を渡される。それは杖と手紙で、中には復活の呪文が記されていた。
伝承・魔法オタクのバーリーでは叶わなかった復活の呪文だが、イアンがふと呟くと杖から光が放たれる。ところが途中で失敗してしまい、父は腰から下だけの不完全な復活をしてしまう。手紙によると、魔法の効果は24時間だけ。魔法の鍵となる不死鳥の石を手に入れるため、兄弟は一日限りの旅に出る…。
①前置き
これエンタメとしてダメじゃない?という酷評方向で論を進めるんですが、理由はこれがディズニーピクサー映画だからです。
映画が、アニメが全部分かり易いエンタメであれとは言いません。でも、ピクサーは違う。数十分のパイロット版を複数個用意し、脚本を徹底的にブラッシュアップさせる。3DCGのプログラムを他作品に流用せず、寧ろ作品ごとに重力など物理法則の表現を丸ごと創造する。スタジオ単位では多作に見えて制作チームが平行しており、1本当たり完成までに5年かけるのもザラ…。優秀なスタッフが、集合知で、圧倒的な努力と準備で作品を作り上げるんです。だからこそストーリーは王道ながら、質がとてつもなく高い。
その前提を踏まえた上で、ピクサーでこれかよぉ!?ってとこを列挙していきます。
②世界観のビジュアル的説得力のなさ
魔法は失われたのに、幻獣が当たり前のように存在する世界。この設定は新しくて良いですよねぇ!!でも、それを裏打ちするビジュアルがない。
https://magiclazy.diarynote.jp/201905122334064886/
『名探偵ピカチュウ』評を参照して欲しいけど、体型やサイズが千差万別の住民が共存する世界で、建物、車、道具一般が「普通の人間サイズしかない」のは絶対におかしい!
本来、ピクサーはここ丁寧だったんですよ。傑作「ズートピア」ではテーマ曲がかかる中、街並みが見えてくる風景一発で多様性が見えた。初期作であっても「カーズ」は車が生きている世界のディティールに満ちていた。或いは「アーロと少年」であっても、恐竜に知能があったらこんな住生活だろう…という冒頭の掴みが効いていた。
でさぁ!何で巨漢トロールが普通の机とイスなの!?ケンタウロス警官が乗れるフォルムのパトカーがないの!?ピクシーはミニミニバイクじゃなくて人間サイズのバイクを集団で乗り回すの!?おまけにこの世界、「科学と技術が発展して魔法が不必要になった」設定なんですよ。それでこのビジュアルって、科学を愚弄してない?あれか、進化論を拒否するキチガイキリスト教原理主義に配慮したってこと?
ここ寧ろ、社会風刺かと思ったんですよ。「表向き多様性を謳った社会だけど、マイノリティーにとっては窮屈な世界」のメタファーかと。それを魔法が解放してくれるのか…?と期待はするも、特にそういう話運びにはなって行かず(エンディングで各人が自分らしく振舞うショットがあるけれど強引過ぎ)。
③摩擦係数ゼロの人間ドラマ:兄と弟
兄バーリーが聖人過ぎる。いや、善人キャラが悪いんじゃないよ、ただ対立とそれに続く和解がないと、ドラマの起伏が発生しない。
シャイな弟と陽気な兄という凸凹コンビのバディもの、それもロードムービーともなれば、互いの欠点を補い合うのが王道手。でも今作のバーリーは出だしこそチャラウザなものの、物語を理屈で動かす分には実は全部正論を言っていたことが明らかになってしまう。補完の関係にない。
バーリーが頭脳、イアンが魔法という役割分担が出来ていると言えなくもないけど、そしたら中盤は「俺が教えたから上手くいった」「いや僕が魔法を使ったからだ」っていう発案・実行の軸で争うべきでしょ?それなら後半で力を合わせて補完し合えばカタルシスになる。なのに「長く険しい道だ」「いや安全で短い道だよ」という理の部分で口論させたがゆえに、間違いを押し通したイアンが一方的に馬鹿に見えてしまう。
勿論、映画にはメンターというジャンルがある。年上で人生経験豊富な側が、才気走るが未熟な若者を教え導くというもの。それでも殊ロードムービーになると、「リアルスティール」「シェフ フードトラック始めました」のように、父子の年の差であっても互いに学ぶものがあるのが最近の潮流。今作、バーリーはイアンから学ぶものがないんですよ。常に教え、励まし、支えるだけ。
聖人ぶりの最たるものが魔法の扱いね。バーリーって人生ずっと魔法と伝承に憧れて、生きてきた少年だよね。杖を見つけた時は当然詠唱したけれど、彼には魔法を起こせなかった。一方、さしたる興味を持ってこなかったイアンがあっさり魔法を使えたことに関して羨望、更に言えば妬みやっかみの感情を抱かないって…現実的な心理としてありえる?某レビューであった「なろう系アニメみたい」が本当にピッタリ来るような、全承認するキャラになってしまっている。
④摩擦係数ゼロの人間関係:父と子
ライトフット家は複雑な環境にあります。実父ウィルデンは死に、ケンタウロスのブロンコが兄弟の母ローレルと恋仲となっている。この設定立てはドラマになるじゃないですか。古典「エデンの東」みたく、既に去った親の幻影に入れ込む余りに、今の親に反発してしまう。結果傷つけあうが、最終的には和解する…そうなっていかないんですよ。
折角ブロンコが警察官で、親に無断で旅に出た兄弟を追うストーリーなのだから、ルパン・銭形の関係にすれば良い。執拗に追いかけられるも、何度も間一髪ですり抜ける。あわや逮捕か、という時に巨悪と対峙する状況になり一時的な共闘関係を結ぶ。そうすれば成長譚になるでしょうが。兄弟からすればウィルデンの思い出と共に養父ブロンコを受け入れ、ブロンコ側からすればローレルのコブ付き程度だった兄弟に我が子としての愛を見出だす…。何でこうならないのか?そう、ポリコレだね。
中盤、チョイ役だったマンティコアのコーリーがローリーと意気投合して、中年オバサン旅が並行し始めます。単なる賑やかしなら兎も角、ラストバトルまでガッツリ関わって来るのには愕然としましたね。お前、ウィルデン家に関係ないやん。これこそブロンコ・ローリーの大人タッグにした方が圧倒的に収まりが良いでしょう。ウィルデンのセンシティブな話題も触れながら、女であり妻、男であり夫の微妙な揺らぎの中で諍いもする。けれど最終的には兄弟と合流して、「家族」としてドラゴンを討伐する…。こっちの方が絶対綺麗だから!でも女二人の方がね、男3女1よりフェミっぽいから受けるのかね?
⑤伏線提示の下手くそさ
伏線が全部後出しで明かされるのが、今作最大の問題。
冒頭、バーリーが熱中するボードゲームにイアンは冷ややかな態度を取る。するとバーリーは「これは歴史的な事実だから」と答えるが、物語が進む内に伝説が真実だと分かる…。この伏線は良いですよ、なら台詞じゃなくて「動き」で伏線にしなきゃ!
Fate評でも言いましたが、ここで反復と変化ですよ。冒頭ではおもちゃのマップと双六の駒で、RPGごっこをバーリーに取らせる。「恐ろしの道を抜け、カラスの導きを辿り、ゼリーキューブから逃げきって、邪竜を倒す」。それをひとつづつ、スケールアップした現実の画で後から回収すべきでしょ。何でその都度バーリーは「次はあそこに行ってこれをしよう」と口で説明するんですか!!!
それとね、イアンのToDoリストの伏線ね。キャッチボール・ドライブ・楽しい時間を過ごす…。何気ない願望が終盤で、「実はバーリーとの間でなら叶っていた」と悟るんです。これ自体は非常に感動的…だけどビックリしたことに劇中存在しなかった映像で回想するんですよ。
1日の冒険だから、過去の風景を映像に出来ない?なら家族写真、ビデオアルバムの形でも良いから!1回目は父ウィルデンにカメラが寄ってるけど、実はバーリーがイアンを見守ってる構図もきちんと入れておく。2度目はバーリーにクローズアップさせる…とかさ。
⑥絶賛ポイント:魔法の意味するもの
クソほど酷評してきたでしょ?でも僕、この映画嫌いになれないんですよ。だって、才能と人生を描いた映画だから。
この映画において、魔法は才能のメタファーだと敢えて言い切ります。冒頭、わざわざ台詞で魔法とは何かが示されます。「魔法は人をワクワクさせ、魅了するものだった…」。「ロードオブザリング」オマージュの、老人の魔法使いが花火を打ち上げる画も象徴的ですよね。その大輪の輝きは、観る者全てを無条件でときめかせてしまう。
魔法は才能だからこそ、習得は叶わない。イアンはその使い道を一旦知れば自由に使えるようになり、最終的にはドラゴンを倒せるようにもなった。一方、バーリーは一度たりとも使えないまま終わるんですよ。ラストバトルには、もはや完全に関わらなくなっている。
⑦魔法=才能論の根拠
妄想乙wwで片づけられるのは心外なので、論拠を示します。今作がピクサーの、ダン・スキャンロン監督作だから。
ピクサーは一貫して、夢と才能・願望と資質を描いてきました。「トイストーリー1」では、バズの夢はスペースレンジャーでしたが、おもちゃという資質を受け入れました。「カーズ」は才能に自惚れた男が挫折し、真の資質を見出す話。ブラッドバード監督ともなると、「インクレディブルファミリー」「レミーのおいしいレストラン」では「才能がないのに、才能のある人間の足を引っ張る奴は淘汰されるべきだ」という残酷なテーマさえ打ち出してきます。
それでは、ダン・スキャンロン監督はどうか。彼の前作「モンスターズユニバーシティ」は、まさに才能についての映画でした。怖がらせる才能があるのに使い方が分からないサリー(今作のイアンそっくりですね)と、使い方は知っているのに才能のないマイク(まさに今作のバーリー)。マイクはどれだけ熱意があって、努力しても、怖がらせる才能がなかった。結果的には大学を退学する羽目になったけれど、視点を変え紆余曲折を経た結果、天職にまでたどり着くことが出来た。
⑧『Onward』
いつも陽気に振舞っているバーリーにも影はある。それは末期の父の傍らに座って、お別れを告げられなかったこと。それが胸に刺さる棘となってずっと残っていた。(劇中で明示はされないけれど)魔法に過度に拘る人間になった一端も、そこにあるのかもしれない。
そんな彼に、完全に復活した父と語らえるほんのひと時が訪れるわけです。ここで、「ドラゴンの退治か、父との語らいか」の二択を迫られたイアンが前者を取る選択をする。このシーンをイアンの成長と捉えることは出来るけど、僕は寧ろバーリーへの救いでもあると思うのです。これまでも、これからも望んだ形では報われない男に訪れた、一度切りの奇跡であり魔法。
才能がなければ、望んだ生き方は出来ない。でも、マイクが怖がらせ会社の裏方仕事を転々として、最後はサリーのアシスタントとして夢を叶えたように、視点を変えて回り道をすればたどり着く先は同じになるかもしれない。今作中盤、バーリーは旅を続けるために、愛車グヴィネヴィアを犠牲にします。稲妻の魔法で起こせた事態を、バーリーもまた覚悟と機転で以て実現出来たワケです。
今作の原題、『Onward』はグヴィネヴィアのシフトインジケーターの表示でもある。グヴィネヴィア=過去の小さな執着を捨てて旅を続けられたように、バーリーは父と語らうことで救いを得ました。それは「魔法が使えるようになる」といった非現実的で、過去に抱いた願いではない。父へのわだかまり=過去の大きな執着から脱却出来たからこそ、才能が無いなりに彼は人生を歩みだせる。Onward=前へと。
以上、5千字評でした。
才能論の落ち着け方として穏当。世間の大多数は、これを書いてる私も読んでる貴方にも(望んだ意味での)才能がない。「いつか叶う」は呪いであり、「諦めろ」は絶望になる。だからこそ中庸の考え方は生きる希望になる。
それを示してくれるという点では今作評価できるだけど…それならさ、「モンスターズユニバーシティ」で良いよね。演出、脚本、キャラクターのドラマ全部が高品質な上に、全く同じテーマを扱っている。つまりは「モンスターズユニバーシティ」をレンタルで観るのが…お勧めだよね!
伝承・魔法オタクのバーリーでは叶わなかった復活の呪文だが、イアンがふと呟くと杖から光が放たれる。ところが途中で失敗してしまい、父は腰から下だけの不完全な復活をしてしまう。手紙によると、魔法の効果は24時間だけ。魔法の鍵となる不死鳥の石を手に入れるため、兄弟は一日限りの旅に出る…。
①前置き
これエンタメとしてダメじゃない?という酷評方向で論を進めるんですが、理由はこれがディズニーピクサー映画だからです。
映画が、アニメが全部分かり易いエンタメであれとは言いません。でも、ピクサーは違う。数十分のパイロット版を複数個用意し、脚本を徹底的にブラッシュアップさせる。3DCGのプログラムを他作品に流用せず、寧ろ作品ごとに重力など物理法則の表現を丸ごと創造する。スタジオ単位では多作に見えて制作チームが平行しており、1本当たり完成までに5年かけるのもザラ…。優秀なスタッフが、集合知で、圧倒的な努力と準備で作品を作り上げるんです。だからこそストーリーは王道ながら、質がとてつもなく高い。
その前提を踏まえた上で、ピクサーでこれかよぉ!?ってとこを列挙していきます。
②世界観のビジュアル的説得力のなさ
魔法は失われたのに、幻獣が当たり前のように存在する世界。この設定は新しくて良いですよねぇ!!でも、それを裏打ちするビジュアルがない。
https://magiclazy.diarynote.jp/201905122334064886/
『名探偵ピカチュウ』評を参照して欲しいけど、体型やサイズが千差万別の住民が共存する世界で、建物、車、道具一般が「普通の人間サイズしかない」のは絶対におかしい!
本来、ピクサーはここ丁寧だったんですよ。傑作「ズートピア」ではテーマ曲がかかる中、街並みが見えてくる風景一発で多様性が見えた。初期作であっても「カーズ」は車が生きている世界のディティールに満ちていた。或いは「アーロと少年」であっても、恐竜に知能があったらこんな住生活だろう…という冒頭の掴みが効いていた。
でさぁ!何で巨漢トロールが普通の机とイスなの!?ケンタウロス警官が乗れるフォルムのパトカーがないの!?ピクシーはミニミニバイクじゃなくて人間サイズのバイクを集団で乗り回すの!?おまけにこの世界、「科学と技術が発展して魔法が不必要になった」設定なんですよ。それでこのビジュアルって、科学を愚弄してない?あれか、進化論を拒否する
ここ寧ろ、社会風刺かと思ったんですよ。「表向き多様性を謳った社会だけど、マイノリティーにとっては窮屈な世界」のメタファーかと。それを魔法が解放してくれるのか…?と期待はするも、特にそういう話運びにはなって行かず(エンディングで各人が自分らしく振舞うショットがあるけれど強引過ぎ)。
③摩擦係数ゼロの人間ドラマ:兄と弟
兄バーリーが聖人過ぎる。いや、善人キャラが悪いんじゃないよ、ただ対立とそれに続く和解がないと、ドラマの起伏が発生しない。
シャイな弟と陽気な兄という凸凹コンビのバディもの、それもロードムービーともなれば、互いの欠点を補い合うのが王道手。でも今作のバーリーは出だしこそチャラウザなものの、物語を理屈で動かす分には実は全部正論を言っていたことが明らかになってしまう。補完の関係にない。
バーリーが頭脳、イアンが魔法という役割分担が出来ていると言えなくもないけど、そしたら中盤は「俺が教えたから上手くいった」「いや僕が魔法を使ったからだ」っていう発案・実行の軸で争うべきでしょ?それなら後半で力を合わせて補完し合えばカタルシスになる。なのに「長く険しい道だ」「いや安全で短い道だよ」という理の部分で口論させたがゆえに、間違いを押し通したイアンが一方的に馬鹿に見えてしまう。
勿論、映画にはメンターというジャンルがある。年上で人生経験豊富な側が、才気走るが未熟な若者を教え導くというもの。それでも殊ロードムービーになると、「リアルスティール」「シェフ フードトラック始めました」のように、父子の年の差であっても互いに学ぶものがあるのが最近の潮流。今作、バーリーはイアンから学ぶものがないんですよ。常に教え、励まし、支えるだけ。
聖人ぶりの最たるものが魔法の扱いね。バーリーって人生ずっと魔法と伝承に憧れて、生きてきた少年だよね。杖を見つけた時は当然詠唱したけれど、彼には魔法を起こせなかった。一方、さしたる興味を持ってこなかったイアンがあっさり魔法を使えたことに関して羨望、更に言えば妬みやっかみの感情を抱かないって…現実的な心理としてありえる?某レビューであった「なろう系アニメみたい」が本当にピッタリ来るような、全承認するキャラになってしまっている。
④摩擦係数ゼロの人間関係:父と子
ライトフット家は複雑な環境にあります。実父ウィルデンは死に、ケンタウロスのブロンコが兄弟の母ローレルと恋仲となっている。この設定立てはドラマになるじゃないですか。古典「エデンの東」みたく、既に去った親の幻影に入れ込む余りに、今の親に反発してしまう。結果傷つけあうが、最終的には和解する…そうなっていかないんですよ。
折角ブロンコが警察官で、親に無断で旅に出た兄弟を追うストーリーなのだから、ルパン・銭形の関係にすれば良い。執拗に追いかけられるも、何度も間一髪ですり抜ける。あわや逮捕か、という時に巨悪と対峙する状況になり一時的な共闘関係を結ぶ。そうすれば成長譚になるでしょうが。兄弟からすればウィルデンの思い出と共に養父ブロンコを受け入れ、ブロンコ側からすればローレルのコブ付き程度だった兄弟に我が子としての愛を見出だす…。何でこうならないのか?そう、ポリコレだね。
中盤、チョイ役だったマンティコアのコーリーがローリーと意気投合して、中年オバサン旅が並行し始めます。単なる賑やかしなら兎も角、ラストバトルまでガッツリ関わって来るのには愕然としましたね。お前、ウィルデン家に関係ないやん。これこそブロンコ・ローリーの大人タッグにした方が圧倒的に収まりが良いでしょう。ウィルデンのセンシティブな話題も触れながら、女であり妻、男であり夫の微妙な揺らぎの中で諍いもする。けれど最終的には兄弟と合流して、「家族」としてドラゴンを討伐する…。こっちの方が絶対綺麗だから!でも女二人の方がね、男3女1よりフェミっぽいから受けるのかね?
⑤伏線提示の下手くそさ
伏線が全部後出しで明かされるのが、今作最大の問題。
冒頭、バーリーが熱中するボードゲームにイアンは冷ややかな態度を取る。するとバーリーは「これは歴史的な事実だから」と答えるが、物語が進む内に伝説が真実だと分かる…。この伏線は良いですよ、なら台詞じゃなくて「動き」で伏線にしなきゃ!
Fate評でも言いましたが、ここで反復と変化ですよ。冒頭ではおもちゃのマップと双六の駒で、RPGごっこをバーリーに取らせる。「恐ろしの道を抜け、カラスの導きを辿り、ゼリーキューブから逃げきって、邪竜を倒す」。それをひとつづつ、スケールアップした現実の画で後から回収すべきでしょ。何でその都度バーリーは「次はあそこに行ってこれをしよう」と口で説明するんですか!!!
それとね、イアンのToDoリストの伏線ね。キャッチボール・ドライブ・楽しい時間を過ごす…。何気ない願望が終盤で、「実はバーリーとの間でなら叶っていた」と悟るんです。これ自体は非常に感動的…だけどビックリしたことに劇中存在しなかった映像で回想するんですよ。
1日の冒険だから、過去の風景を映像に出来ない?なら家族写真、ビデオアルバムの形でも良いから!1回目は父ウィルデンにカメラが寄ってるけど、実はバーリーがイアンを見守ってる構図もきちんと入れておく。2度目はバーリーにクローズアップさせる…とかさ。
⑥絶賛ポイント:魔法の意味するもの
クソほど酷評してきたでしょ?でも僕、この映画嫌いになれないんですよ。だって、才能と人生を描いた映画だから。
この映画において、魔法は才能のメタファーだと敢えて言い切ります。冒頭、わざわざ台詞で魔法とは何かが示されます。「魔法は人をワクワクさせ、魅了するものだった…」。「ロードオブザリング」オマージュの、老人の魔法使いが花火を打ち上げる画も象徴的ですよね。その大輪の輝きは、観る者全てを無条件でときめかせてしまう。
魔法は才能だからこそ、習得は叶わない。イアンはその使い道を一旦知れば自由に使えるようになり、最終的にはドラゴンを倒せるようにもなった。一方、バーリーは一度たりとも使えないまま終わるんですよ。ラストバトルには、もはや完全に関わらなくなっている。
⑦魔法=才能論の根拠
妄想乙wwで片づけられるのは心外なので、論拠を示します。今作がピクサーの、ダン・スキャンロン監督作だから。
ピクサーは一貫して、夢と才能・願望と資質を描いてきました。「トイストーリー1」では、バズの夢はスペースレンジャーでしたが、おもちゃという資質を受け入れました。「カーズ」は才能に自惚れた男が挫折し、真の資質を見出す話。ブラッドバード監督ともなると、「インクレディブルファミリー」「レミーのおいしいレストラン」では「才能がないのに、才能のある人間の足を引っ張る奴は淘汰されるべきだ」という残酷なテーマさえ打ち出してきます。
それでは、ダン・スキャンロン監督はどうか。彼の前作「モンスターズユニバーシティ」は、まさに才能についての映画でした。怖がらせる才能があるのに使い方が分からないサリー(今作のイアンそっくりですね)と、使い方は知っているのに才能のないマイク(まさに今作のバーリー)。マイクはどれだけ熱意があって、努力しても、怖がらせる才能がなかった。結果的には大学を退学する羽目になったけれど、視点を変え紆余曲折を経た結果、天職にまでたどり着くことが出来た。
⑧『Onward』
いつも陽気に振舞っているバーリーにも影はある。それは末期の父の傍らに座って、お別れを告げられなかったこと。それが胸に刺さる棘となってずっと残っていた。(劇中で明示はされないけれど)魔法に過度に拘る人間になった一端も、そこにあるのかもしれない。
そんな彼に、完全に復活した父と語らえるほんのひと時が訪れるわけです。ここで、「ドラゴンの退治か、父との語らいか」の二択を迫られたイアンが前者を取る選択をする。このシーンをイアンの成長と捉えることは出来るけど、僕は寧ろバーリーへの救いでもあると思うのです。これまでも、これからも望んだ形では報われない男に訪れた、一度切りの奇跡であり魔法。
才能がなければ、望んだ生き方は出来ない。でも、マイクが怖がらせ会社の裏方仕事を転々として、最後はサリーのアシスタントとして夢を叶えたように、視点を変えて回り道をすればたどり着く先は同じになるかもしれない。今作中盤、バーリーは旅を続けるために、愛車グヴィネヴィアを犠牲にします。稲妻の魔法で起こせた事態を、バーリーもまた覚悟と機転で以て実現出来たワケです。
今作の原題、『Onward』はグヴィネヴィアのシフトインジケーターの表示でもある。グヴィネヴィア=過去の小さな執着を捨てて旅を続けられたように、バーリーは父と語らうことで救いを得ました。それは「魔法が使えるようになる」といった非現実的で、過去に抱いた願いではない。父へのわだかまり=過去の大きな執着から脱却出来たからこそ、才能が無いなりに彼は人生を歩みだせる。Onward=前へと。
以上、5千字評でした。
才能論の落ち着け方として穏当。世間の大多数は、これを書いてる私も読んでる貴方にも(望んだ意味での)才能がない。「いつか叶う」は呪いであり、「諦めろ」は絶望になる。だからこそ中庸の考え方は生きる希望になる。
それを示してくれるという点では今作評価できるだけど…それならさ、「モンスターズユニバーシティ」で良いよね。演出、脚本、キャラクターのドラマ全部が高品質な上に、全く同じテーマを扱っている。つまりは「モンスターズユニバーシティ」をレンタルで観るのが…お勧めだよね!
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