新春2本立て鑑賞 『ビルとテッドの時空旅行』『ワンダーウーマン1984』
2021年1月10日 映画
1本ごとに書くほどの熱意はないので、「80年代アメリカ」という軸でざっくり二本立て評を試みます。
『ビルとテッドの時空旅行 音楽で世界を救え!』
超粗筋 77分(主観)で世界を救う曲を作れ!
結論としては「作り手は何故1作目が評価されたのを理解してない」な、と。
1作目『ビルとテッドの時間旅行』は1989年。80年代のアメリカはと言えば、レーガン大統領のレーガノミクスの時代でした。この政策は乱暴に言うと減税、規制緩和による大企業優遇+そこで減る歳入は社会保障の切り詰めでカバーというもの。冷え込んだ経済を犠牲出しながらでも動かせば、大企業様の利益がトリクルダウンする筈!貧乏人も結果得をする!って考えです。今の共和党に繋がる新自由主義ですね。
で、この政策によって生まれたのは大量消費社会と競争至上主義でした。50年代全盛期アメリカのような「ボトムアップで皆が裕福になる」時代とは別。1作目『ビルとテッドの時間旅行』はこの潮流へのアンチテーゼだったのです。二人は一流大学とは縁のない超おバカ高校生。そんな彼らだけど、「肩肘張らず、互いをリスペクトすれば十分じゃない?」とレールを外れた人生も肯定してくれる。だからこそ、当時の若者は熱狂したのです。
ってワケで、このノリをそのまま2020年に持ってきても受けるワケないすよね。
そもそもの話、「おバカコメディー」と「人生再帰ジャンル」の食い合わせが最悪。ちゃらんぽらんな馬鹿キャラは高校生だから許されるのであって、子供が成人済の50代男性なのに口半開き・トロけ顔でぐふぐふ笑ってるのは白痴かヤク中ですよ。人生再帰ものは理想と現実のギャップに苦悩し、それを埋める努力をする姿に感情移入するジャンルの筈。それなのにビルとテッドは現状に何の不満も持っていないのだから、感動が生じようがない。
今作、当初の案では「互いに成功し、今では疎遠となった二人が再会して危機に挑む」って設定だったらしいです。絶対こっちの方が良かったですよ。ビルとテッドの片方、若しくは二人とも世間ズレしくたびれた中年にする。それが相方、或いは娘ちゃん二人のバカノリに当初は(常識に則った)反発を抱くも、徐々に昔を思い出すようにテンションが変わりだす。クライマックスに向けて両家族とも全員ぶっ飛んだ発想をするようになり、それが結果として世界を救う妙手となる…。これならば「おバカコメディー」「人生再帰もの」どちらの要件も満たせたのでは。
「外しギャグこそがビル&テッド」って言うんなら、せめて1作目が評価されたように現在の時勢を作品に盛り込むべきだったんじゃないですかね。ブラムハウスの低予算ホラーの方がよほど意識的に作ってますよ。
ワンダーウーマン 1984
超粗筋 女傑VS何でも願い叶えるマン
タイトル見たとき、いやーな感じしたんですよ。「あーまたぞろエイティーズノスタルジーものかよ」、と。でも蓋を開けてみると違った。この時代の良さと悪さ、その両方をきちんと捉えている。ここは非常に良かった。
今作にはヴィランが二人登場する。ロード社長が体現するのが、前述したレーガノミクスの社会状況ですね。彼は「ドリームストーン」の力によって、他者の願いを叶え同時に対価を奪い取っていく。DCヴィランって大概「暴力で世界を支配しちゃうぞーわっはっは」って感じの脳筋タイプばかりだったので、口八丁手八丁でのし上がる姿は新鮮。大衆の競争意識をマスメディアで煽り立てて成長していく姿はレーガンであり、トランプでもある。
もう一人のヴィラン、バーバラはポストフェミニズム時代の女性を象徴している。戦後に女性の社会進出が広がり「建前上は」男女平等になった。けれど実際は男と同じ仕事は求められていない…。『ワンダーウーマン』は戦中が舞台だったけれど、あちらの「女は家に居ろよ」観とは差別化できている辺り、きちんと時代性が出ていたな、と。
ここからは一転こき下ろします。
先ず、アクションが酷い。「ヘスティアの鞭」って縄が武器なんすけど、この使い方がワンパ。ライミ版スパイダーマン、アメスパ、ヴェノム、マーベルスパイダーマンとここ20年の過去ヒーロー映画の方がよっぽど見せ方工夫してますよ。
空飛ぶシーンも、流れる雲を背景にしてフワァ…と飛ぶばかり。マンオブスティールから退化してません?
パティ・ジェンキンス監督は「アクションで実写に拘った」と発言。でも実写アクションに意味があるのって、「マッドマックス」「ミッションインポッシブル」のように、命の危険があるアクションを生身の人間が演じる感動であるとか、ノーラン監督作品のように巨大な構造物が実際に駆動し壊れていく見事さにあるものじゃない?いずれにしても作品のリアリティーラインが高いのが条件。いやさ…スーパーヒーロー映画で、そこ頑張った意味ある?ワンパンで車吹っ飛ばす怪力女なのに、近接格闘シーンになった途端動きがのたくさして、挙句ワイヤーアクションでフワァ…と浮き上がるのってダサくない?
もう一点。長ェ。1作目は批評家連中から「時間がもっと短ければ完璧」と言われていたのに、今作もまたぞろ150分ある。
必然性のある長さなら良いですよ?でも今作でやることと言えば、「浮世離れした異性を、連れ合いが市中観光にエスコートする」という「ローマの休日ごっこ」。それ!1作目でやったから!トレバーとのいちゃつきまた繰り返すの!?
前述した空飛ぶシーンも不必要なシーンなんですけど、これも脈絡の繋げようがあった筈です。例えば冒頭の幼年期超人トライアスロンの下りを、飛行訓練にする。子供の頃は心の修練が足りず飛べない(或いはアステリアの鎧に認められない)一方、世界の危機に際し行動を示すことで初めて空を飛べるようになったら、それは「敵本拠地に間に合う」「観客をエモくさせる」って両機能を満たせるじゃないですか。
この監督、舞台設定、人物描写、美術は文句なしに上手い人だとは思います。ただアクションと編集周りは制作側がコントロールした方が良いんじゃないかなー。
大分ふわっとしてますが、新年一発目はこんな感じで。
『ビルとテッドの時空旅行 音楽で世界を救え!』
超粗筋 77分(主観)で世界を救う曲を作れ!
結論としては「作り手は何故1作目が評価されたのを理解してない」な、と。
1作目『ビルとテッドの時間旅行』は1989年。80年代のアメリカはと言えば、レーガン大統領のレーガノミクスの時代でした。この政策は乱暴に言うと減税、規制緩和による大企業優遇+そこで減る歳入は社会保障の切り詰めでカバーというもの。冷え込んだ経済を犠牲出しながらでも動かせば、大企業様の利益がトリクルダウンする筈!貧乏人も結果得をする!って考えです。今の共和党に繋がる新自由主義ですね。
で、この政策によって生まれたのは大量消費社会と競争至上主義でした。50年代全盛期アメリカのような「ボトムアップで皆が裕福になる」時代とは別。1作目『ビルとテッドの時間旅行』はこの潮流へのアンチテーゼだったのです。二人は一流大学とは縁のない超おバカ高校生。そんな彼らだけど、「肩肘張らず、互いをリスペクトすれば十分じゃない?」とレールを外れた人生も肯定してくれる。だからこそ、当時の若者は熱狂したのです。
ってワケで、このノリをそのまま2020年に持ってきても受けるワケないすよね。
そもそもの話、「おバカコメディー」と「人生再帰ジャンル」の食い合わせが最悪。ちゃらんぽらんな馬鹿キャラは高校生だから許されるのであって、子供が成人済の50代男性なのに口半開き・トロけ顔でぐふぐふ笑ってるのは白痴かヤク中ですよ。人生再帰ものは理想と現実のギャップに苦悩し、それを埋める努力をする姿に感情移入するジャンルの筈。それなのにビルとテッドは現状に何の不満も持っていないのだから、感動が生じようがない。
今作、当初の案では「互いに成功し、今では疎遠となった二人が再会して危機に挑む」って設定だったらしいです。絶対こっちの方が良かったですよ。ビルとテッドの片方、若しくは二人とも世間ズレしくたびれた中年にする。それが相方、或いは娘ちゃん二人のバカノリに当初は(常識に則った)反発を抱くも、徐々に昔を思い出すようにテンションが変わりだす。クライマックスに向けて両家族とも全員ぶっ飛んだ発想をするようになり、それが結果として世界を救う妙手となる…。これならば「おバカコメディー」「人生再帰もの」どちらの要件も満たせたのでは。
「外しギャグこそがビル&テッド」って言うんなら、せめて1作目が評価されたように現在の時勢を作品に盛り込むべきだったんじゃないですかね。ブラムハウスの低予算ホラーの方がよほど意識的に作ってますよ。
ワンダーウーマン 1984
超粗筋 女傑VS何でも願い叶えるマン
タイトル見たとき、いやーな感じしたんですよ。「あーまたぞろエイティーズノスタルジーものかよ」、と。でも蓋を開けてみると違った。この時代の良さと悪さ、その両方をきちんと捉えている。ここは非常に良かった。
今作にはヴィランが二人登場する。ロード社長が体現するのが、前述したレーガノミクスの社会状況ですね。彼は「ドリームストーン」の力によって、他者の願いを叶え同時に対価を奪い取っていく。DCヴィランって大概「暴力で世界を支配しちゃうぞーわっはっは」って感じの脳筋タイプばかりだったので、口八丁手八丁でのし上がる姿は新鮮。大衆の競争意識をマスメディアで煽り立てて成長していく姿はレーガンであり、トランプでもある。
もう一人のヴィラン、バーバラはポストフェミニズム時代の女性を象徴している。戦後に女性の社会進出が広がり「建前上は」男女平等になった。けれど実際は男と同じ仕事は求められていない…。『ワンダーウーマン』は戦中が舞台だったけれど、あちらの「女は家に居ろよ」観とは差別化できている辺り、きちんと時代性が出ていたな、と。
ここからは一転こき下ろします。
先ず、アクションが酷い。「ヘスティアの鞭」って縄が武器なんすけど、この使い方がワンパ。ライミ版スパイダーマン、アメスパ、ヴェノム、マーベルスパイダーマンとここ20年の過去ヒーロー映画の方がよっぽど見せ方工夫してますよ。
空飛ぶシーンも、流れる雲を背景にしてフワァ…と飛ぶばかり。マンオブスティールから退化してません?
パティ・ジェンキンス監督は「アクションで実写に拘った」と発言。でも実写アクションに意味があるのって、「マッドマックス」「ミッションインポッシブル」のように、命の危険があるアクションを生身の人間が演じる感動であるとか、ノーラン監督作品のように巨大な構造物が実際に駆動し壊れていく見事さにあるものじゃない?いずれにしても作品のリアリティーラインが高いのが条件。いやさ…スーパーヒーロー映画で、そこ頑張った意味ある?ワンパンで車吹っ飛ばす怪力女なのに、近接格闘シーンになった途端動きがのたくさして、挙句ワイヤーアクションでフワァ…と浮き上がるのってダサくない?
もう一点。長ェ。1作目は批評家連中から「時間がもっと短ければ完璧」と言われていたのに、今作もまたぞろ150分ある。
必然性のある長さなら良いですよ?でも今作でやることと言えば、「浮世離れした異性を、連れ合いが市中観光にエスコートする」という「ローマの休日ごっこ」。それ!1作目でやったから!トレバーとのいちゃつきまた繰り返すの!?
前述した空飛ぶシーンも不必要なシーンなんですけど、これも脈絡の繋げようがあった筈です。例えば冒頭の幼年期超人トライアスロンの下りを、飛行訓練にする。子供の頃は心の修練が足りず飛べない(或いはアステリアの鎧に認められない)一方、世界の危機に際し行動を示すことで初めて空を飛べるようになったら、それは「敵本拠地に間に合う」「観客をエモくさせる」って両機能を満たせるじゃないですか。
この監督、舞台設定、人物描写、美術は文句なしに上手い人だとは思います。ただアクションと編集周りは制作側がコントロールした方が良いんじゃないかなー。
大分ふわっとしてますが、新年一発目はこんな感じで。
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