裁判要素ゼロのホラー『死霊館:悪魔のせいなら、無罪。』をいろいろ語る
2021年10月8日 映画
粗筋 1981年、心霊研究家エドと霊能力者ロレインのウォーレン夫妻は、11歳の少年デイビッドの悪魔祓いに立ち会う。悪魔は強大であわやという場面、デイビッドの義兄となる青年アーニーは叫ぶ。「この子を放せ!僕に乗り移れ!」と。果たして悪魔は去り、一旦は落ち着くが…。
ほどなく、アーニーは悪夢に苛まれるようになる。その果て、彼は家主を刃物で惨殺。ウォーレン夫妻はアーニーを救うため、「彼は悪魔に憑りつかれていた」と主張を始める…。
①作品概説
類型興収2200億のメガヒットを誇るシリーズ、『死霊館』。近作も既に世界興収2億ドルを越え躍進している。
『死霊館』ユニバースは7作続いているが、アナベルシリーズ3作・外伝1作とは異なり、今作はナンバリングタイトル第3作となる(原題は"Conjuring 3")。ナンバリングタイトルを歴代撮ってきたジェームズワンに代わり、今作の監督はマイケル・チャベス。代表作に『ラ・ヨローナ~泣く女~』など。
②方便としての宗教
映画シリーズというのは、何作も続けばマンネリするというもの。一方『死霊館』ユニバースは、様々なバリエーションを試してきました。『死霊館のシスター』では修道院ミステリー、『死霊人形の誕生』では孤児院ホラー(今作は白昼堂々に霊が出ます!)、前作の『死霊博物館』は一夜のお留守番もの…といった具合に。
しかしながら、共通する点があります。それは「閉鎖空間・コミュニティー」を設けているところ。シングル家庭、子を失った夫婦、森深い古城…。よるべない境遇・空間に居る者は精神を失調しやすい。悪魔/神という方便であろうと、そうした病み疲れた者を救えるのであれば、それは良きことでしょう。
アメリカ人の半数以上は、天使の実在を信じています。それは今語ったような方便ではなく、現象や運命に影響を与える存在としてです。その意味では、今作の受容はアメリカと日本では大分違う訳ですが…。それにしても、「人を救う、愛や絆を確かめる」という要素があるからこそ、『死霊館』シリーズはキリスト教圏外の各国でも好評を博すのでしょう。
③フィクション部分(というか殺人事件よりのち全部)
ところが本作『死霊館:悪魔のせいなら、無罪。』はこれまでとは違う展開を迎えます。宗教とは正反対の空間、法廷において、「悪魔の実在」を問うのです。
ウォーレン夫妻は「法廷で聖書に誓うだろ?裁判所もそろそろ悪魔の存在を認めるべきだ。」と大分キチガイ染みた主張をする始末。ところが物語は、裁判から脱線していきます。デイビットの住む家には悪魔の呪いが掛けられていた、類似の呪具が残されていた事件を追う、そこから元凶である魔女を突き止める…と魔女と悪魔を巡る筋へとシフトしていくのです。
「アーニーは悪魔に侵され殺人に手を染めた後も、呪われている。彼の魂を救うために魔女を追うのだ!」…という推進力はいちおう提示されてはいる。しかし乍ら、極刑もありうる罪状の弁護ではなく、何故あさっての方向に努力するのか?と気になりますよね。それもその筈、現実のシャイアン裁判は敗訴しているのです。そのため、そこに力点を置くわけにはいかなかった。
⑤『エミリーローズ』
悪魔の実在を問う、史実に基づいた映画と言えば『エミリーローズ』が思い出されます。悪魔祓いの最中に少女が死亡し、神父が過失致死に問われる。彼が化学療法よりも宗教儀式を優先させたがゆえに、少女が拒食症のすえに死んだのではないかと、法廷で問われたのだ。こちらは今作と違い、法廷劇の要素がかなり濃いめの作品です。
結局、『エミリーローズ』において神父には有罪の判決が下されました。奇行には精神科医の説明が、異言語発話には教育履歴が、同時発声には声帯構造の説明が…と、「悪魔のしわざ」に思われた数々が、化学的に反駁を与えられていく。作品のトーンとしては弁護側を応援する気持ちには満ちているものの、元になったアンネリーゼ事件と同じ結末となっています。
⑥史実としてのアルネ・シャイアン・ジョンソン事件
今作の元となった事件において、アルネは大家のアランを刺殺しています。アランは酒乱であり、事件当日、アルネの婚約者デビーの従妹に絡んでいたところを、ポケットナイフで複数回刺され死亡しました。
これに対し、ウォーレン夫妻は「悪魔に憑りつかれたせいだ」と主張。マスメディアを巻き込んだ騒動へと発展しました。その際夫妻は、イギリスの類似事件を引用したり、除霊の専門家を呼ぶなど画策。果ては、デイビッドの悪魔祓いに参加した僧侶に対し、弁護に協力しなければ召喚状を出すぞ、と脅迫までしていたそうです。
…裁判においては当然、宗教的な証拠は棄却されます。弁護側は早々に正当防衛に論点を切り替え、それでもなお懲役10年から20年が言い渡される完全敗北を迎えたのです。
⑦エンタメとしてのお話
ゆえに、映画では裁判パートを完全に飛ばし、フィクション増し増しに切り替えたのは英断と言えます。先ほど、「閉鎖性と方便」という話をしました。宗教という閉じたセカイを救う論議を、法律という客観的で開けた世界に向けようとすればするほど、滑稽で愚かな主張になってしまう。『死霊館』シリーズで折角打ち立ててきたウォーレン夫妻のイメージが、モンスター宗教狂人に堕してしまうからです。
そのため、映画は「正義の宗教家VS悪のカルト信奉者」という閉じたセカイの話へシフト。まあ狂人同士で争うぶんには、ええやろ。収監という形でアーニーとウォーレン夫妻を引き離し、役割分担という形でエドとロレインも引き離す。場面ばめんで焦燥感を煽る工夫もあり、ホラーエンタメとして一定水準は確保されてはいます。…いるんだけどねぇ…。
⑧誰が割りを食ったか?
今作で、最も苦労したのは誰でしょう?悪魔に乗り移られたアーニー?魔女と対決したロレイン?心臓病をおして妻を支えたエド?いや、殺された家主だろうが!!
究極的な話をすれば、悪魔を証明できない以上に、悪魔の不在も証明できません。でも
A:悪魔が実在し、殺人を犯させた
B:衝動的に殺した。恋人の家庭環境を利用し、悪魔を口実に減刑を目論んだ
いずれにせよ、殺されたアランは一方的な被害者なんですよ!
アランは酒乱だった。それにこれはホラーエンタメでもある。それでもなお、史実としての殺人事件を扱うにあって、被害者に一片たりとも弔意が向けられていないのはどうなんでしょう?映画ではついぞ、「済まなかった」と謝るシーンも墓参りのシーンもない。人ひとりブチ殺しておいて、大団円の雰囲気で終わるというのは理解できません。
⑨結びに
ある宗教家は語りました。
前作、『アナベル:死霊博物館』でも、ロレインがそっくりの励ましをラストでかけています。でもこれ、シャロン・テート事件を始め連続殺人を首謀したチャールズ・マンソンの思想なんですよ。
一昨年、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』という映画がありました。監督のタランティーノは、『イングロリアス・バスターズ』制作において
と言っています。『ワンス~』においても、本来ならば惨殺される筈だったシャロン・テートは生き延び、マンソンファミリーはこれ以上なくぶっ飛んだ逆襲に遭って全滅します。
両作とも、史実を題材としながらフィクション要素をたぶんに盛った映画です。しかし片や、犠牲者への弔意と犯罪への糾弾に溢れた作品。そして片や、人殺しを道徳心と愛に溢れた聖人であるかのように描く作品がある。
さきほど、アメリカ人の信仰心の深さを示しました。彼らは聖書を無謬であると信じ、全てに優先させて行動する。そうかそれなら、「汝殺す莫れ」と説くキリスト教を信じるくせに、堕胎をする産婦人科医を殺すような真似も…平気でするわな。
はい、4千字評でした。別に何信じたってええねん。でも他人の命よりも自分の信仰を優先させて、それが当たり前のような顔されると…何だかなあ。
死霊館シリーズって、EDクレジット然り「これ史実ですよ!!」って全面に押し出してるんですよ。それが今作だけは余計に鼻に付きますね。
ほどなく、アーニーは悪夢に苛まれるようになる。その果て、彼は家主を刃物で惨殺。ウォーレン夫妻はアーニーを救うため、「彼は悪魔に憑りつかれていた」と主張を始める…。
①作品概説
類型興収2200億のメガヒットを誇るシリーズ、『死霊館』。近作も既に世界興収2億ドルを越え躍進している。
『死霊館』ユニバースは7作続いているが、アナベルシリーズ3作・外伝1作とは異なり、今作はナンバリングタイトル第3作となる(原題は"Conjuring 3")。ナンバリングタイトルを歴代撮ってきたジェームズワンに代わり、今作の監督はマイケル・チャベス。代表作に『ラ・ヨローナ~泣く女~』など。
②方便としての宗教
映画シリーズというのは、何作も続けばマンネリするというもの。一方『死霊館』ユニバースは、様々なバリエーションを試してきました。『死霊館のシスター』では修道院ミステリー、『死霊人形の誕生』では孤児院ホラー(今作は白昼堂々に霊が出ます!)、前作の『死霊博物館』は一夜のお留守番もの…といった具合に。
しかしながら、共通する点があります。それは「閉鎖空間・コミュニティー」を設けているところ。シングル家庭、子を失った夫婦、森深い古城…。よるべない境遇・空間に居る者は精神を失調しやすい。悪魔/神という方便であろうと、そうした病み疲れた者を救えるのであれば、それは良きことでしょう。
アメリカ人の半数以上は、天使の実在を信じています。それは今語ったような方便ではなく、現象や運命に影響を与える存在としてです。その意味では、今作の受容はアメリカと日本では大分違う訳ですが…。それにしても、「人を救う、愛や絆を確かめる」という要素があるからこそ、『死霊館』シリーズはキリスト教圏外の各国でも好評を博すのでしょう。
③フィクション部分(というか殺人事件よりのち全部)
ところが本作『死霊館:悪魔のせいなら、無罪。』はこれまでとは違う展開を迎えます。宗教とは正反対の空間、法廷において、「悪魔の実在」を問うのです。
ウォーレン夫妻は「法廷で聖書に誓うだろ?裁判所もそろそろ悪魔の存在を認めるべきだ。」と大分キチガイ染みた主張をする始末。ところが物語は、裁判から脱線していきます。デイビットの住む家には悪魔の呪いが掛けられていた、類似の呪具が残されていた事件を追う、そこから元凶である魔女を突き止める…と魔女と悪魔を巡る筋へとシフトしていくのです。
「アーニーは悪魔に侵され殺人に手を染めた後も、呪われている。彼の魂を救うために魔女を追うのだ!」…という推進力はいちおう提示されてはいる。しかし乍ら、極刑もありうる罪状の弁護ではなく、何故あさっての方向に努力するのか?と気になりますよね。それもその筈、現実のシャイアン裁判は敗訴しているのです。そのため、そこに力点を置くわけにはいかなかった。
⑤『エミリーローズ』
悪魔の実在を問う、史実に基づいた映画と言えば『エミリーローズ』が思い出されます。悪魔祓いの最中に少女が死亡し、神父が過失致死に問われる。彼が化学療法よりも宗教儀式を優先させたがゆえに、少女が拒食症のすえに死んだのではないかと、法廷で問われたのだ。こちらは今作と違い、法廷劇の要素がかなり濃いめの作品です。
結局、『エミリーローズ』において神父には有罪の判決が下されました。奇行には精神科医の説明が、異言語発話には教育履歴が、同時発声には声帯構造の説明が…と、「悪魔のしわざ」に思われた数々が、化学的に反駁を与えられていく。作品のトーンとしては弁護側を応援する気持ちには満ちているものの、元になったアンネリーゼ事件と同じ結末となっています。
⑥史実としてのアルネ・シャイアン・ジョンソン事件
今作の元となった事件において、アルネは大家のアランを刺殺しています。アランは酒乱であり、事件当日、アルネの婚約者デビーの従妹に絡んでいたところを、ポケットナイフで複数回刺され死亡しました。
これに対し、ウォーレン夫妻は「悪魔に憑りつかれたせいだ」と主張。マスメディアを巻き込んだ騒動へと発展しました。その際夫妻は、イギリスの類似事件を引用したり、除霊の専門家を呼ぶなど画策。果ては、デイビッドの悪魔祓いに参加した僧侶に対し、弁護に協力しなければ召喚状を出すぞ、と脅迫までしていたそうです。
…裁判においては当然、宗教的な証拠は棄却されます。弁護側は早々に正当防衛に論点を切り替え、それでもなお懲役10年から20年が言い渡される完全敗北を迎えたのです。
⑦エンタメとしてのお話
ゆえに、映画では裁判パートを完全に飛ばし、フィクション増し増しに切り替えたのは英断と言えます。先ほど、「閉鎖性と方便」という話をしました。宗教という閉じたセカイを救う論議を、法律という客観的で開けた世界に向けようとすればするほど、滑稽で愚かな主張になってしまう。『死霊館』シリーズで折角打ち立ててきたウォーレン夫妻のイメージが、モンスター宗教狂人に堕してしまうからです。
そのため、映画は「正義の宗教家VS悪のカルト信奉者」という閉じたセカイの話へシフト。
⑧誰が割りを食ったか?
今作で、最も苦労したのは誰でしょう?悪魔に乗り移られたアーニー?魔女と対決したロレイン?心臓病をおして妻を支えたエド?いや、殺された家主だろうが!!
究極的な話をすれば、悪魔を証明できない以上に、悪魔の不在も証明できません。でも
A:悪魔が実在し、殺人を犯させた
B:衝動的に殺した。恋人の家庭環境を利用し、悪魔を口実に減刑を目論んだ
いずれにせよ、殺されたアランは一方的な被害者なんですよ!
アランは酒乱だった。それにこれはホラーエンタメでもある。それでもなお、史実としての殺人事件を扱うにあって、被害者に一片たりとも弔意が向けられていないのはどうなんでしょう?映画ではついぞ、「済まなかった」と謝るシーンも墓参りのシーンもない。人ひとりブチ殺しておいて、大団円の雰囲気で終わるというのは理解できません。
⑨結びに
ある宗教家は語りました。
死は変化に過ぎない」「魂や霊は死ねない」
前作、『アナベル:死霊博物館』でも、ロレインがそっくりの励ましをラストでかけています。でもこれ、シャロン・テート事件を始め連続殺人を首謀したチャールズ・マンソンの思想なんですよ。
一昨年、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』という映画がありました。監督のタランティーノは、『イングロリアス・バスターズ』制作において
「歴史的に悲惨な末路を辿った人たちがいる。せめてフィクションの中では、その無念を果たしてやりたいんだ」
と言っています。『ワンス~』においても、本来ならば惨殺される筈だったシャロン・テートは生き延び、マンソンファミリーはこれ以上なくぶっ飛んだ逆襲に遭って全滅します。
両作とも、史実を題材としながらフィクション要素をたぶんに盛った映画です。しかし片や、犠牲者への弔意と犯罪への糾弾に溢れた作品。そして片や、人殺しを道徳心と愛に溢れた聖人であるかのように描く作品がある。
さきほど、アメリカ人の信仰心の深さを示しました。彼らは聖書を無謬であると信じ、全てに優先させて行動する。そうかそれなら、「汝殺す莫れ」と説くキリスト教を信じるくせに、堕胎をする産婦人科医を殺すような真似も…平気でするわな。
はい、4千字評でした。別に何信じたってええねん。でも他人の命よりも自分の信仰を優先させて、それが当たり前のような顔されると…何だかなあ。
死霊館シリーズって、EDクレジット然り「これ史実ですよ!!」って全面に押し出してるんですよ。それが今作だけは余計に鼻に付きますね。
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