海内無双のクソ映画リターン!『護られなかった者たちへ』をこき下ろす
粗筋 福祉関係者ばかりを狙う、連続殺人事件が起きた。生活保護の認可に関わる業務のため怨恨も考えられるが、被害者はいずれも善人で名の通った者ばかり。刑事の笘篠は丁寧に足跡を追い、遂に利根青年を容疑者として割り出した。
 生活保護費が支給されず餓死した老女、その関係者たる利根は役所に放火した過去がある。その裏に、大震災で生まれた疑似家族の姿があった…。




①作品概説
 原作は「どんでん返しの帝王」として知られる、中山千里の同名小説。
 監督は『64 ーロクヨンー』『8年越しの花嫁』などの瀬々敬久。主演はコメディーからシリアスまでこなす阿部寛に、躍進止まらぬ佐藤健。脇を倍賞美津子、鶴見慎吾ら名優が固める。
 
 酷評ポイントは大きく3つ。「台詞くっちゃべり問題」「リアリティなさすぎ」「貧困の描き方」を縷々述べていきますが、2つ目が
https://magiclazy.diarynote.jp/202011300000375360/
去年酷評した『ドクターデスの遺産』と大きく被ります。2作とも中山千里氏が原作ということで…これが作家性か!なら仕方ねえやな!


②内心だだ漏れ

「僕たちの仕事って、誰かのためになってるんですかね」「けっ、何が善人だよ。馬鹿らしい」「何なんだよその台詞、やってられっか!」

 一再ならず言ってきたけど、映画で直接台詞は止めろや!状況説明やここぞのシーンなら分かる。でも、しんみり泣かせるシーンや不条理苦衷に顔歪ませる場面でも使うのはアホやぞ?
 例えば刑事バディの蓮田が毒づくシーン。「けっ何が善人だよ。馬鹿らしい」なんて口にしなくて良い。荒々しく調査結果を机に投げ出す→こぼれた写真から「善人」の笑顔…この2つだけで、「不信感」「苛立ち」の2つは表現できるじゃん?学芸会やめよ?


③リアリティ:犯人像
 外連味のあるアクション映画なら兎も角、シリアスな作品にはリアリティが必要だと思うんですよ。しかも今作、リアリティの欠如がミステリ要素を減じる要因にもなっている。
 当初犯人かと思われた利根を他所に、真犯人が別に居た…ってどんでん返しが用意されている。”現場のゲソ痕(下足痕)に細工があった”っていう伏線が張られてはいるものの、考えたら当たり前の話で。
 利根、ワープアなんですよ。保護観察が外れたばかりで、車がないどころか満足に金もない。そんな奴が「誘拐遺棄致死」なんて大それた犯罪起こせます?30キロ離れた事件現場まで、どうやって被害者共々移動出来たのか?それゆえ、犯人が利根の妹分、円山だと明かされても何の驚きもない。



④リアリティ:誘拐
 真犯人は福祉センターの円山だった、彼女なら役所の車を使うことも出来た…となるんですけど、すると新たな問題が立ち上がる。そう、なんです。
「おかえりモネ」の主演と言えばわかりますかね。身長もせいぜいが160センチ。そんな小柄な女性一人で、自分より上背のある成人男性の誘拐って不可能でしょ。
 殺人や死体遺棄なら兎も角、生きたままの誘拐ですよ?呼び出した先でどう意識を失わせるのか、どう車まで運ぶのか、車から遺棄場所までどう自分一人で運ぶのか…そういう手順の描写が一切ない。特に噴飯だったのが、廃アパートの階段で被害者の入った袋をずるずる引き上げるシーンですね。お前背筋凄いな!オリンピック出ろよ!!

「ドクターデス」然り、原作者がそういうところに気を払わない作家なんでしょう。でも、映像で補うことも出来た筈だ。マッチングアプリのハニトラや脅迫メールで、向こうから現場まで歩かせるのが一番スマートでしょう。先に挙げた階段牽引では、配送業者が使う多輪キャリーカートに乗せてテコの原理で引き上げる描写でも良い。何らかの手で、「非力な女性一人で成人男性を誘拐する」って非現実な設定を、上手く誤魔化せないのか。
 おまけに、誘拐手段がスタンガンのように描写されるんだけど…スタンガンって別に昏睡しないからね?おまけに着衣の上から当てるってさあ…ほんっっっと、細部を考証する意識がねえなぁ!!


⑤リアリティ:共闘
 円山の更なる殺人を止めるべく、苫篠と利根が協力する展開が後半に来る。人命に関わる非常時ゆえ、勾留されている利根を警察署外に連れ出すのは呑み込もう。でも、利根の手錠を解いた状態で現場に入るんですよ。
 いやいや観客は兎も角、刑事からすれば利根は未だ容疑者扱いでしょ?連続殺人鬼を両手両足自由で行動させるって、刑事以前に人間の心理としてあり得ます?
 何故こんなふざけた描写が入るのか?それは「利根と円山が固く抱き合って泣き咽ぶ」シーンを入れたいがため。感動げな画を入れるために、非常識だったり不自然な流れにするのって、「大作邦画」のご定番なんですね。


⑥生活保護の描き方
 テーマ性があれば、リアリティは要らない?百歩譲ってよしとしよう。でも、生活保護や貧困の描き方にも、問題があると感じました。今作は、貧困を「情の問題」として片づけるんですよ。

 今作では2件、貧困による悲劇が起きます。一つは事件の発端となった、老女の餓死。もう一つが、生活保護の打ち切られたシングル家庭の心中未遂。でも、その理由がどちらも情によるものなんですよ。
 老女、遠島けいは若い頃に子供を捨てており、生活保護申請の際に連絡が行くのを嫌がって辞退した。もう一方は、娘を塾に行かせたいと願いパートで稼ぎ始めたことで就労支援に移行させられた。結末は悲劇ではあるものの、題材の捉え方としてどうか。

 情だけの問題にしては何故いけないのか?一つには、問題が個別化・特殊化されてしまい、貧困問題が抱える普遍性が、「この人だけの話」に堕してしまう。
 もう一つが、情の話は、自己責任・決定論に結び付いてしまうんですよ。生活態度・ものの捉え方を変えれば解決出来る問題に見えてしまう。


⑦(名作のほうの)貧困映画
 ケン・ローチという巨匠が居ます。労働者層の貧困をテーマに撮り続ける超絶リベラルな監督なんですが、彼の作品に通底するのは「貧困は制度や社会実体として存在している」という意識。
『わたしは、ダニエルブレイク』では、就労と生活保護の狭間で「大して働けないが、手厚く支援される程でもない」老人の苦闘を描いている。他にも『家族を想うとき』では、フランチャイズ制によって「働けば働くほど家庭も家計も破滅していく」男の姿がある。

 或いは、以前絶賛した西川監督の『素晴らしき世界』では
https://magiclazy.diarynote.jp/202103100151575242/
出獄者の人生がドン詰まっていく過程が、ディティール豊かに描かれる。「辛い!辛い!」って意思発信させなくとも、その生き様を丁寧に描くだけで、哀感悲愴さは客観性を持って生まれるものなんですよ。



⑧結びに
 社会性のある映画は、全てリアリティーを追求すべきとは言いません。例えばインド映画。「無職の大卒」「女性の穢れ」「警察による射殺解決」などの重いテーマを扱う作品であっても、途中で恋愛ミュージカルやアクションが挟まる。けれど、緩急=エンタメとして機能させるための要素なので、多少の乱暴さは許せる。
 一方の今作は、しっとり静かに見せる映画なんすよ!その筈なのに、台詞は読み上げ、ミステリ要素は杜撰、おまけに貧困の扱いもなおざり。「取り合えず重いテーマ出しとけ」って浅薄な性根が透けて見えるところが、堪らなく腹が立つんでしょうね。






 3000字評でした。ドクターデスの方がエンタメやろうとしてた分、まだマシでした。

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