ポストジブリ映画の新作(であり失敗作の)『鹿の王』を長々こき下ろす
2022年2月1日 映画
試写行きました。うーんこれはキツい…。
粗筋 覇権国家ツオル帝国と、自然豊かなアカファ王国。かつてツオル国はアカファ国に侵攻したが、謎の病・黒狼病(ミッツァル)の流行によって撤退した過去がある。以後ツオルはアカファを友好的に併合していたが、アカファ内で反乱が始まった。ウイルスを宿す山犬を用い、ツオル領内でミッツァルを流行らせ始めたのだ。
ツオル随一の医者ホッサルは、皇帝の命で調査を開始。山犬に噛まれ生き延びた男ヴァンを知り、血清を作るべく後を追う。だがアカファの放った狩人サエもまた、ヴァンを付け狙っていた…。
①作品概要
原作は本屋大賞を受賞した、上橋菜穂子の同名小説。著者が文化人類学者だけあって、非常民である狩猟民族の文化、風習が濃密に盛り込まれたファンタジー小説…って原作の説明はどうでも良いんだよ。この映画、前回書いた通りとにかくジブリ臭が途轍もないの!
https://magiclazy.diarynote.jp/202201312134285489/
それもその筈、監督・キャラデザ・作監全てを仕切ってるのが安藤雅司。ジブリ時代は『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』を、フリーになった後は『君の名は。』のキャラデザ・作画監督を担い、幾多のメガヒットに貢献したレジェンド級アニメーターです。
…ンだけど、この映画、クッソ詰まらなかったです。僕はその理由として、「黄金期ハヤオ映画のエンタメ性がなかったから」だと考えます。無論、今作に原作小説があるのは承知。その上で「ハヤオ映画的なるもの」の軸で今作を主に貶して語って行こうと思います。
②ポストジブリ
黄金期ハヤオを「ナウシカ~千と千尋」とするなら、「ハウル・ポニョ」以降は混迷を始めた時期でしょう。その頃から、ポスト駿・ジブリと持てはやす(代理店が担ぎ出す)ムーヴメントが生まれたように思います。
電通が『バケモノの子』を猛プッシュしていた時代の、細田守。『星を追うこども』の頃の、新海誠。ジブリ内で言えば、ゴローちゃんや『メアリと魔法の花』の米林監督(そういやスタジオポノックってどうなった?)。
そして、今作『鹿の王』と安藤監督。今作の配給は日テレ。日テレと言えば~ジブリとズブズブですね!
ですが、そのどれも「ジブリ路線」でその後成功したとは言えません。その中で出てきた今作もまた、露骨なジブリ後追い。「ああまた駄作だなあ…」と落胆したのですが、何故詰まらなくなるのか?それはガワだけジブリっぽさを真似て、ハヤオのエンタメ性を引き継いでいないからだと考えます。
③ハヤオのエンタメ性:キャラ相関
ここから具体的な話をしていきましょう。唯一ジブリらしさを踏襲していたのが、キャラ相関の観点。
ハヤオ映画には、大きく分けて4通りのキャラクターが登場します。
A)少女:世界の鍵を握る
B)少年:オタク気質/冒険好き。少女と交流し護る
C)悪役:野心があり、その成就のため鍵を握る少女を追う
D)大人の女:悪役の下で動きつつも、別の思惑を持って行動している
この4パターンですね。今作においては、少女=ユナ、少年=主人公のヴァン、悪役=アカファ王、大人の女=ホッサル/サエが該当します。
追う・追われる、裏切って事態をかき乱すなど、物語の骨格はエンタメとして機能しています…が、端役までジブリっぽいのは苦笑しちゃいますね。ホッサルの従者マコウカンは烏帽子御前の側近ゴンザ、ヴァンが身を寄せる集落の男トマは牛飼いの甲六と、演出に至るまで酷似してますから。
④メカがない!
ここからは酷評ポイント=ハヤオの良さがない点をあげつらっていきます。先ず第一に、メカがない!
蒸気を噴き上げる内燃機関が、歯車や振り子がひしめくカラクリ内部が、多翼をしならせる高速小型艇が、雲を割きぬっと顔を出す飛空艇が、火花を飛ばしレールを疾走するトロッコが、地面をバウンドする戦車や車が、炎上し墜落する飛行船が、ブロック状に床が割れ崩落する巨城が、一切ねーんだよなー!本当に参るぜ!
無論、アニメにメカやロボが不可欠なワケはない。男児ゴコロをくすぐるような、もう一度見たくなるようなシーンが必要なんですよ。これが本作『鹿の王』にはなかった。
⑤抜きどころ見所がない
興行的に成功する映画には、見所が必要です。少年漫画原作なら、ufotableやMAPPAのような超絶作画のバトルシーンが、キモオタ女児向けアニメならダンス・ライブシーンが、コナンなら赤井ファミリーが。
では安藤監督なら?それはキャラデザと、動きによる感情表現だったんですよ(本来)。『君の名は。』では、従来の新海作品にはなかった表情のコミカルさ、ちょっとした仕草でラブコメを成立させメガヒットに導いた。マイナー作ですが『ももへの手紙』でも、妖怪3人と人間のアンバランスな遣り取りが、暖かいユーモアを生んでいた。
それなのに、今作の登場人物は、みーんな眉根に皺を寄せて深刻面するばかり。原作が暗いトーンで話が淡々と進むらしいので仕方ないのかもしれませんが、キャラに声がついて動いていても誰一人愛着持てないんですよ。これは安藤監督作品として、致命的じゃねーかなー。
⑥上下構造と穢れ
ハヤオ評論で定番の言説ですが、ジブリ映画には『上下構造』が存在すると言われます。カリオストロの「城」、ナウシカの「腐海と地底湖」、千と千尋の「油屋」…。少女=主人公は上へ上り、一度最下層へと堕ち、再浮上を果たす。
映画の王道として、3幕構成と呼ばれるものがあります。第一幕で世界の設定/主人公の目的が示され、第二幕で障害と衝突し挫けそうになる。第三幕ではその解決が果たされ成長する…といった具合に。
そうした定番の中で、ハヤオの独自性は何か、それは「穢れ」観念です。
ジブリ作品の少女たちは第二幕で最下層に堕ち、穢れに触れます。カリオストロ城の地下迷宮のように具体的なものがあれば、魔女の宅急便や千と千尋のように、「お腹が痛くなる」=初潮を迎えるといったように赤不浄の場合もある。かくして、出だしでは純粋無垢だった彼女らは、穢れ=現実に触れることで価値観が揺さぶられる。
その後の再浮上では、全てが復旧されるワケではない。キキがジジの声が聴けなくなったように、変化=成長を果たして世界と対峙するのです。
⑦『鹿の王』における穢れ
黒狼病という、それっぽい設定は出てきます。でも、「物語の機能として」これは穢れではないんですよ。何故ならば物語の冒頭でヴァンもユナも罹患するため、二人の価値観は2時間を通して何ら変化しないのだから。
とはいえ、4~5歳くらいの少女であるユナに性を匂わせる訳にもいかない。それならば今作が取るべきだったのは何か?それはヴァン・ユナの間での諍いでしょう。この映画、ツオルとアカファを巡る大きな物語はあるものの、(少なくとも映画上では)ヴァン・ユナの間に摩擦がない=小さな物語が存在してないんです。これはドラマとして、本当に詰まらない。
⑧ヴァン側からの摩擦
辛い過去を持つ壮年男と、初心な子供/青年の旅…ロードムービーや、それより昔の西部劇の頃からある定番形式。そこで重要なのは、「オジンのツンデレ」です。この映画、徹頭徹尾ヴァンがデレてるんですよ。
ハードな生き方をしてきたがゆえに、斜に構えるようになった渋ミドル。そんな彼が初心な若者と出会い、タフな生き方をその身を犠牲にして教えていく…。その出だしでは、現実を知らない若者に突慳貪な態度を取るものです。それでこそ、幾多の障害を経て絆を育む様に感動出来る。
無論、原作から大きく変えろとは言わない。でも、歩み寄りを映像で表現することは出来た筈だ。『クレイマー、クレイマー』におけるフレンチトーストのように、何気ない動作の繰り返しを描くことで他人から父親に移行していく様を見せられた筈だ。浮き沈みがあってこそ、別離は耐え難いものとして映えるものなのに。
⑨ユナ側からの摩擦
それでは、ユナ側が抱える穢れとは何か。それはヴァンが血の繋がらない父親と知ることでしょう。ヴァンは全てを了解してユナを養育している、けれどユナは本物の父親だと思って接しているわけです。それがアカファの追手から逃げる旅をするうち、ふとしたことで露見する。実母が死んだことも悟り、ヴァンを思わず拒絶してしまう…そこでアカファの親玉ケノイに攫われるという展開なら、大きな物語としての別離と小さな物語としての仲違いが重なり合う。
その後、初めて自我に目覚めたユナがケノイとヴァンを天秤にかけ、それでもヴァンを選んでこそ、二人は真の意味で親娘になれるのでは。ヴァンが劇中「親子というものは、血縁が重要ではないのです」と語るように、ユナ側も「血が繋がっていなくとも、ヴァンは父さんなんだ」と思い直せばこそ成長できるのでは。
「原作がこうだから」。そりゃそーです。でも全4巻を通読する体験と、2時間弱の映画体験では想いに浸る密度が違うんですよ。だから映画にするなら、ドラマに起伏が必要。
この映画内において、ユナに自発性は皆無じゃないですか?これ作劇上、人である必然性ないですよね?別に大切にしてる生き物であれば、犬でもバッタでも盆栽でも話成り立っちゃいますよね??
⑩ラスト:災害によるカタストロフ
最後の項目になりますが、ハヤオ映画の最終盤といえば大災害です。上下構造を成していた建築物/土地が崩壊し、大きな流れが穢れを押し流す。瓦礫になった新しい世界で、穢れは薄く(けれども決して皆無ではなく)なった世界で、聖穢両方を抱えて生きていく。ナウシカの名言
ですね。
一方の今作は、ヴァンが全て損を被って去っていくという「西部劇エンディング」…。なんですが、その演出が余りにも古臭い。犬の王となったヴァンを金色の光がバオーーーッと包み、滑るようにぴゅーーっと平原を駆け抜け、その光芒が遠い山並みに流星のようにたなびいて消えていく…。
あのさあ!!!逆シャアとか、イデオン発動編の時代なら兎も角、あなた今2022年(公開予定は2021年)ですよ!!!冒頭の悪夢シーンといい、ファンタジー演出が昭和なんだよ!!単調な光がビガーーッ!!は止めれ!!
⑪結びに
ポストジブリ…。そう評されるのは、何も国内に限った話ではありません。ジブリの影響下にあることを公言したスタジオで、「狼に噛まれて呪いが罹る」「自然と文明の対立軸」「少女が鍵を握る」「悪役に追われる」…こんな作品がごく最近ありましたね。カートゥーンサルーンの傑作、
https://magiclazy.diarynote.jp/202011200036414147/
『ウルフウォーカー』です。
公開前の映画なので、そこまで酷いことは言いません。でも、『鹿の王』を劇場で観るくらいなら、演出も、テーマ性も、アニメーションの到達度も、ドラマも全て勝っている『ウルフウォーカー』観た方が、良いんじゃねえかな。
はい、5千字評でした。何気に当ブログでジブリの話するの初めてだね。
『鹿の王』は2/4(金)より東宝系映画館で全国公開!皆も劇場へ急げ!
粗筋 覇権国家ツオル帝国と、自然豊かなアカファ王国。かつてツオル国はアカファ国に侵攻したが、謎の病・黒狼病(ミッツァル)の流行によって撤退した過去がある。以後ツオルはアカファを友好的に併合していたが、アカファ内で反乱が始まった。ウイルスを宿す山犬を用い、ツオル領内でミッツァルを流行らせ始めたのだ。
ツオル随一の医者ホッサルは、皇帝の命で調査を開始。山犬に噛まれ生き延びた男ヴァンを知り、血清を作るべく後を追う。だがアカファの放った狩人サエもまた、ヴァンを付け狙っていた…。
①作品概要
原作は本屋大賞を受賞した、上橋菜穂子の同名小説。著者が文化人類学者だけあって、非常民である狩猟民族の文化、風習が濃密に盛り込まれたファンタジー小説…って原作の説明はどうでも良いんだよ。この映画、前回書いた通りとにかくジブリ臭が途轍もないの!
https://magiclazy.diarynote.jp/202201312134285489/
それもその筈、監督・キャラデザ・作監全てを仕切ってるのが安藤雅司。ジブリ時代は『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』を、フリーになった後は『君の名は。』のキャラデザ・作画監督を担い、幾多のメガヒットに貢献したレジェンド級アニメーターです。
…ンだけど、この映画、クッソ詰まらなかったです。僕はその理由として、「黄金期ハヤオ映画のエンタメ性がなかったから」だと考えます。無論、今作に原作小説があるのは承知。その上で「ハヤオ映画的なるもの」の軸で今作を
②ポストジブリ
黄金期ハヤオを「ナウシカ~千と千尋」とするなら、「ハウル・ポニョ」以降は混迷を始めた時期でしょう。その頃から、ポスト駿・ジブリと持てはやす(代理店が担ぎ出す)ムーヴメントが生まれたように思います。
電通が『バケモノの子』を猛プッシュしていた時代の、細田守。『星を追うこども』の頃の、新海誠。ジブリ内で言えば、ゴローちゃんや『メアリと魔法の花』の米林監督(そういやスタジオポノックってどうなった?)。
そして、今作『鹿の王』と安藤監督。今作の配給は日テレ。日テレと言えば~ジブリとズブズブですね!
ですが、そのどれも「ジブリ路線」でその後成功したとは言えません。その中で出てきた今作もまた、露骨なジブリ後追い。「ああまた駄作だなあ…」と落胆したのですが、何故詰まらなくなるのか?それはガワだけジブリっぽさを真似て、ハヤオのエンタメ性を引き継いでいないからだと考えます。
③ハヤオのエンタメ性:キャラ相関
ここから具体的な話をしていきましょう。唯一ジブリらしさを踏襲していたのが、キャラ相関の観点。
ハヤオ映画には、大きく分けて4通りのキャラクターが登場します。
A)少女:世界の鍵を握る
B)少年:オタク気質/冒険好き。少女と交流し護る
C)悪役:野心があり、その成就のため鍵を握る少女を追う
D)大人の女:悪役の下で動きつつも、別の思惑を持って行動している
この4パターンですね。今作においては、少女=ユナ、少年=主人公のヴァン、悪役=アカファ王、大人の女=ホッサル/サエが該当します。
追う・追われる、裏切って事態をかき乱すなど、物語の骨格はエンタメとして機能しています…が、端役までジブリっぽいのは苦笑しちゃいますね。ホッサルの従者マコウカンは烏帽子御前の側近ゴンザ、ヴァンが身を寄せる集落の男トマは牛飼いの甲六と、演出に至るまで酷似してますから。
④メカがない!
ここからは酷評ポイント=ハヤオの良さがない点をあげつらっていきます。先ず第一に、メカがない!
蒸気を噴き上げる内燃機関が、歯車や振り子がひしめくカラクリ内部が、多翼をしならせる高速小型艇が、雲を割きぬっと顔を出す飛空艇が、火花を飛ばしレールを疾走するトロッコが、地面をバウンドする戦車や車が、炎上し墜落する飛行船が、ブロック状に床が割れ崩落する巨城が、一切ねーんだよなー!本当に参るぜ!
無論、アニメにメカやロボが不可欠なワケはない。男児ゴコロをくすぐるような、もう一度見たくなるようなシーンが必要なんですよ。これが本作『鹿の王』にはなかった。
⑤
興行的に成功する映画には、見所が必要です。少年漫画原作なら、ufotableやMAPPAのような超絶作画のバトルシーンが、
では安藤監督なら?それはキャラデザと、動きによる感情表現だったんですよ(本来)。『君の名は。』では、従来の新海作品にはなかった表情のコミカルさ、ちょっとした仕草でラブコメを成立させメガヒットに導いた。マイナー作ですが『ももへの手紙』でも、妖怪3人と人間のアンバランスな遣り取りが、暖かいユーモアを生んでいた。
それなのに、今作の登場人物は、みーんな眉根に皺を寄せて深刻面するばかり。原作が暗いトーンで話が淡々と進むらしいので仕方ないのかもしれませんが、キャラに声がついて動いていても誰一人愛着持てないんですよ。これは安藤監督作品として、致命的じゃねーかなー。
⑥上下構造と穢れ
ハヤオ評論で定番の言説ですが、ジブリ映画には『上下構造』が存在すると言われます。カリオストロの「城」、ナウシカの「腐海と地底湖」、千と千尋の「油屋」…。少女=主人公は上へ上り、一度最下層へと堕ち、再浮上を果たす。
映画の王道として、3幕構成と呼ばれるものがあります。第一幕で世界の設定/主人公の目的が示され、第二幕で障害と衝突し挫けそうになる。第三幕ではその解決が果たされ成長する…といった具合に。
そうした定番の中で、ハヤオの独自性は何か、それは「穢れ」観念です。
ジブリ作品の少女たちは第二幕で最下層に堕ち、穢れに触れます。カリオストロ城の地下迷宮のように具体的なものがあれば、魔女の宅急便や千と千尋のように、「お腹が痛くなる」=初潮を迎えるといったように赤不浄の場合もある。かくして、出だしでは純粋無垢だった彼女らは、穢れ=現実に触れることで価値観が揺さぶられる。
その後の再浮上では、全てが復旧されるワケではない。キキがジジの声が聴けなくなったように、変化=成長を果たして世界と対峙するのです。
⑦『鹿の王』における穢れ
黒狼病という、それっぽい設定は出てきます。でも、「物語の機能として」これは穢れではないんですよ。何故ならば物語の冒頭でヴァンもユナも罹患するため、二人の価値観は2時間を通して何ら変化しないのだから。
とはいえ、4~5歳くらいの少女であるユナに性を匂わせる訳にもいかない。それならば今作が取るべきだったのは何か?それはヴァン・ユナの間での諍いでしょう。この映画、ツオルとアカファを巡る大きな物語はあるものの、(少なくとも映画上では)ヴァン・ユナの間に摩擦がない=小さな物語が存在してないんです。これはドラマとして、本当に詰まらない。
⑧ヴァン側からの摩擦
辛い過去を持つ壮年男と、初心な子供/青年の旅…ロードムービーや、それより昔の西部劇の頃からある定番形式。そこで重要なのは、「オジンのツンデレ」です。この映画、徹頭徹尾ヴァンがデレてるんですよ。
ハードな生き方をしてきたがゆえに、斜に構えるようになった渋ミドル。そんな彼が初心な若者と出会い、タフな生き方をその身を犠牲にして教えていく…。その出だしでは、現実を知らない若者に突慳貪な態度を取るものです。それでこそ、幾多の障害を経て絆を育む様に感動出来る。
無論、原作から大きく変えろとは言わない。でも、歩み寄りを映像で表現することは出来た筈だ。『クレイマー、クレイマー』におけるフレンチトーストのように、何気ない動作の繰り返しを描くことで他人から父親に移行していく様を見せられた筈だ。浮き沈みがあってこそ、別離は耐え難いものとして映えるものなのに。
⑨ユナ側からの摩擦
それでは、ユナ側が抱える穢れとは何か。それはヴァンが血の繋がらない父親と知ることでしょう。ヴァンは全てを了解してユナを養育している、けれどユナは本物の父親だと思って接しているわけです。それがアカファの追手から逃げる旅をするうち、ふとしたことで露見する。実母が死んだことも悟り、ヴァンを思わず拒絶してしまう…そこでアカファの親玉ケノイに攫われるという展開なら、大きな物語としての別離と小さな物語としての仲違いが重なり合う。
その後、初めて自我に目覚めたユナがケノイとヴァンを天秤にかけ、それでもヴァンを選んでこそ、二人は真の意味で親娘になれるのでは。ヴァンが劇中「親子というものは、血縁が重要ではないのです」と語るように、ユナ側も「血が繋がっていなくとも、ヴァンは父さんなんだ」と思い直せばこそ成長できるのでは。
「原作がこうだから」。そりゃそーです。でも全4巻を通読する体験と、2時間弱の映画体験では想いに浸る密度が違うんですよ。だから映画にするなら、ドラマに起伏が必要。
この映画内において、ユナに自発性は皆無じゃないですか?これ作劇上、人である必然性ないですよね?別に大切にしてる生き物であれば、犬でもバッタでも盆栽でも話成り立っちゃいますよね??
⑩ラスト:災害によるカタストロフ
最後の項目になりますが、ハヤオ映画の最終盤といえば大災害です。上下構造を成していた建築物/土地が崩壊し、大きな流れが穢れを押し流す。瓦礫になった新しい世界で、穢れは薄く(けれども決して皆無ではなく)なった世界で、聖穢両方を抱えて生きていく。ナウシカの名言
「ちがう。いのちは闇の中のまたたく光だ!!」
ですね。
一方の今作は、ヴァンが全て損を被って去っていくという「西部劇エンディング」…。なんですが、その演出が余りにも古臭い。犬の王となったヴァンを金色の光がバオーーーッと包み、滑るようにぴゅーーっと平原を駆け抜け、その光芒が遠い山並みに流星のようにたなびいて消えていく…。
あのさあ!!!逆シャアとか、イデオン発動編の時代なら兎も角、あなた今2022年(公開予定は2021年)ですよ!!!冒頭の悪夢シーンといい、ファンタジー演出が昭和なんだよ!!単調な光がビガーーッ!!は止めれ!!
⑪結びに
ポストジブリ…。そう評されるのは、何も国内に限った話ではありません。ジブリの影響下にあることを公言したスタジオで、「狼に噛まれて呪いが罹る」「自然と文明の対立軸」「少女が鍵を握る」「悪役に追われる」…こんな作品がごく最近ありましたね。カートゥーンサルーンの傑作、
https://magiclazy.diarynote.jp/202011200036414147/
『ウルフウォーカー』です。
公開前の映画なので、そこまで酷いことは言いません。でも、『鹿の王』を劇場で観るくらいなら、演出も、テーマ性も、アニメーションの到達度も、ドラマも全て勝っている『ウルフウォーカー』観た方が、良いんじゃねえかな。
はい、5千字評でした。何気に当ブログでジブリの話するの初めてだね。
『鹿の王』は2/4(金)より東宝系映画館で全国公開!皆も劇場へ急げ!
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