『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』が今年ワースト級
2018年11月23日
カノン7部と伝記は読んだものの、指定教科書や舞台劇本には手を出してないにわかです。知識不足からの誤謬があればご指摘下さい。
①粗筋
オブスキュラスを宿す少年、クリーデンスは生きていた。「グリンデルバルド側に引き込まれては手遅れになる。君にしか出来ない仕事だ」とダンブルドアに依頼され、ニュートはパリに飛ぶ。
一方のクリーデンスはフリークショーの見世物だった蛇女ナギニを連れ、自分の出自を探す旅に出ていた。獄を脱したグリンデルバルドは彼に近づき、純血の名家レストレンジの墓に真実があると告げる。
地下墓地に集まる一同。その奥では純血主義者の集会が開かれていた。グリンデルバルドは会衆に向け演説を打つ。マグルは傲慢で争いを好む、きっと先の大戦を越える大災厄を齎すだろう。それを防ぐためにも、魔法使いはマグルを飼わなければならない、と。止めようとする闇祓いに対し、グリンデルバルドは選別の炎で壁を作る。忠誠を誓うものは焼かれずに越えられる。クリーデンスが、更にはマグル寄りのクィニーすら軍門に下っていく。パリを火の海にするのは阻止できたものの、失ったものは大きかった…。
古城に佇むクリーデンスとグリンデルバルド。本当の出自が明かされる。クリーデンスの本名はアウレリウス・ダンブルドア。ダンブルドア一門の裔だったのだ。
②マグル問題:構造上の類似作品
この映画の欠点は大きく分けて二つ。マグルの中年ジェイコブを連れていることと、グリンデルバルドの魅力がないこと。
先ずマグル問題を語ろう。
ニュート「クィニーを探しに行こう、君も一緒だ!」
ジェイコブ「よし!!」
意 味 が 分 か ら な い 。
前作「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」を一言で説明しよう。「メン・イン・ブラック」だ。本来一般人は「あちら」の世界を知るのは禁じられ、不慮の事態では記憶を消される。一般人とあちら側の人間がやむを得ず手を組み、事件解決後に記憶を消すことを前提の旅に出る…。同じプロットなのだ。壊れたニューヨークの街全体を魔法で覆って記憶を消すラストの展開、MIB2の自由の女神像のニューラライザーフラッシュと全く同じ構造なのにお気づきだろうか?
③マグル問題:物語上の必然性
で、前作で記憶を消された筈のジェイコブが再び出る。クイニ―と恋仲なのはまだ分かる。だがクリーデンスを探す旅に連れていく理由が寸毫たりとも存在しない。前作には後々記憶を消すという理由づけがまだあった。戦間期という時代設定ゆえ、魔法使いとマグルを階層社会に見立て(別離が運命付けられた)身分違いの悲恋を描くという演出上の意味もあった。今作にはねえよ!記憶消せよ!
ジェイコブが語るには、「忘却術が勝手に解けた」とのこと。ああ、これが後で効いて来るのか!と観客は当然思う。伊賀の里の破邪瞳術だったり、魔法の構築は出来ないが解体は超一流の劣等生だったり、異能の力を打ち消す幻想殺しだったりするのか…!何もない。活躍もせずぼさーっと突っ立ってるだけ。
極めつけは純血主義者の集会だろう。いわばKKKの首吊り集会に黒人が紛れているようなものだ。この状況でクイニ―が「愛してるわ」って頭おかしいんじゃねえか?
④グリンデルバルド問題:演出の下手さ
脚本ではなく、演出上の問題もある。グリンデルバルドが世界の命運を分けるほどの敵に見えない。集会のシーンで未来の映像を彼は見せる。時代設定が戦間期であり、「純血主義」者が「排斥・管理すべき」民衆の危険性を訴えるのだから、当然ヒトラーを想起させる。その筈なのに、ジョニデの演説にはまるで引き込まれない。
何もヒトラー式の演説をまるまるコピーしろとは言わない。だが「言葉巧みな余り看守が3度変えられ、終いには舌を切られた」ほどの能弁家なのだから、説得力あるシーンが必要だ。「ザ・マスター」「ウィンストン・チャーチル」のように、やり込めようと待ち構えていた敵までもが、彼の言葉の力に脱帽するシーン一つあれば良かったのだが。
これが無いとどうなるか。それに負ける人間が間抜けに見える。主人公側のクイニ―が闇堕ちするシーンは本来悲しい筈だ。だがグリンデンバルドに説得力がないから「恋愛脳の馬鹿女が騙されたのね」としか見えない。
⑤グリンデルバルド問題:悪役キャラの差別化
何故グリンデルバルドに拘るのか?彼がヴォルデモートとは違うタイプの悪役であることが、カノンで既に示されているからだ。
7部「死の秘宝」の中で、グリンデルバルドはダンブルドアの莫逆の友であったと明かされる。彼の純血主義に若き日のダンブルドアは傾きかけ、それがため妹が死ぬ事故が起きた。あのダンブルドアですら影響を受ける、そんな心理タイプの悪役として納得できる演出つけてくれよ…。淡々と喋りやがってお前は笠智衆かよ…。
⑥結びに
一言。幼稚。
隣に座っていた中年のご婦人連れはハリポタファンなのか、魔法動物が出て来る度カワイイワァーと楽しまれていました。そんな優しい観方が出来る人にだけおススメです。
①粗筋
オブスキュラスを宿す少年、クリーデンスは生きていた。「グリンデルバルド側に引き込まれては手遅れになる。君にしか出来ない仕事だ」とダンブルドアに依頼され、ニュートはパリに飛ぶ。
一方のクリーデンスはフリークショーの見世物だった蛇女ナギニを連れ、自分の出自を探す旅に出ていた。獄を脱したグリンデルバルドは彼に近づき、純血の名家レストレンジの墓に真実があると告げる。
地下墓地に集まる一同。その奥では純血主義者の集会が開かれていた。グリンデルバルドは会衆に向け演説を打つ。マグルは傲慢で争いを好む、きっと先の大戦を越える大災厄を齎すだろう。それを防ぐためにも、魔法使いはマグルを飼わなければならない、と。止めようとする闇祓いに対し、グリンデルバルドは選別の炎で壁を作る。忠誠を誓うものは焼かれずに越えられる。クリーデンスが、更にはマグル寄りのクィニーすら軍門に下っていく。パリを火の海にするのは阻止できたものの、失ったものは大きかった…。
古城に佇むクリーデンスとグリンデルバルド。本当の出自が明かされる。クリーデンスの本名はアウレリウス・ダンブルドア。ダンブルドア一門の裔だったのだ。
②マグル問題:構造上の類似作品
この映画の欠点は大きく分けて二つ。マグルの中年ジェイコブを連れていることと、グリンデルバルドの魅力がないこと。
先ずマグル問題を語ろう。
ニュート「クィニーを探しに行こう、君も一緒だ!」
ジェイコブ「よし!!」
意 味 が 分 か ら な い 。
前作「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」を一言で説明しよう。「メン・イン・ブラック」だ。本来一般人は「あちら」の世界を知るのは禁じられ、不慮の事態では記憶を消される。一般人とあちら側の人間がやむを得ず手を組み、事件解決後に記憶を消すことを前提の旅に出る…。同じプロットなのだ。壊れたニューヨークの街全体を魔法で覆って記憶を消すラストの展開、MIB2の自由の女神像のニューラライザーフラッシュと全く同じ構造なのにお気づきだろうか?
③マグル問題:物語上の必然性
で、前作で記憶を消された筈のジェイコブが再び出る。クイニ―と恋仲なのはまだ分かる。だがクリーデンスを探す旅に連れていく理由が寸毫たりとも存在しない。前作には後々記憶を消すという理由づけがまだあった。戦間期という時代設定ゆえ、魔法使いとマグルを階層社会に見立て(別離が運命付けられた)身分違いの悲恋を描くという演出上の意味もあった。今作にはねえよ!記憶消せよ!
ジェイコブが語るには、「忘却術が勝手に解けた」とのこと。ああ、これが後で効いて来るのか!と観客は当然思う。伊賀の里の破邪瞳術だったり、魔法の構築は出来ないが解体は超一流の劣等生だったり、異能の力を打ち消す幻想殺しだったりするのか…!何もない。活躍もせずぼさーっと突っ立ってるだけ。
極めつけは純血主義者の集会だろう。いわばKKKの首吊り集会に黒人が紛れているようなものだ。この状況でクイニ―が「愛してるわ」って頭おかしいんじゃねえか?
④グリンデルバルド問題:演出の下手さ
脚本ではなく、演出上の問題もある。グリンデルバルドが世界の命運を分けるほどの敵に見えない。集会のシーンで未来の映像を彼は見せる。時代設定が戦間期であり、「純血主義」者が「排斥・管理すべき」民衆の危険性を訴えるのだから、当然ヒトラーを想起させる。その筈なのに、ジョニデの演説にはまるで引き込まれない。
何もヒトラー式の演説をまるまるコピーしろとは言わない。だが「言葉巧みな余り看守が3度変えられ、終いには舌を切られた」ほどの能弁家なのだから、説得力あるシーンが必要だ。「ザ・マスター」「ウィンストン・チャーチル」のように、やり込めようと待ち構えていた敵までもが、彼の言葉の力に脱帽するシーン一つあれば良かったのだが。
これが無いとどうなるか。それに負ける人間が間抜けに見える。主人公側のクイニ―が闇堕ちするシーンは本来悲しい筈だ。だがグリンデンバルドに説得力がないから「恋愛脳の馬鹿女が騙されたのね」としか見えない。
⑤グリンデルバルド問題:悪役キャラの差別化
何故グリンデルバルドに拘るのか?彼がヴォルデモートとは違うタイプの悪役であることが、カノンで既に示されているからだ。
7部「死の秘宝」の中で、グリンデルバルドはダンブルドアの莫逆の友であったと明かされる。彼の純血主義に若き日のダンブルドアは傾きかけ、それがため妹が死ぬ事故が起きた。あのダンブルドアですら影響を受ける、そんな心理タイプの悪役として納得できる演出つけてくれよ…。淡々と喋りやがってお前は笠智衆かよ…。
⑥結びに
一言。幼稚。
隣に座っていた中年のご婦人連れはハリポタファンなのか、魔法動物が出て来る度カワイイワァーと楽しまれていました。そんな優しい観方が出来る人にだけおススメです。